メディカルハーブー47   オリーブリーフ

古代オリンピック競技に参加するアスリートたちは筋肉と関節を柔軟に保つため、オリーブオイルを肌にすりこんでいたといわれます。

古代ギリシア人は、6000年以上前から栽培し、常緑樹オリーブの葉に抗菌作用のあることを知り創傷の浄化に用いていたという歴史をもち、人々の生活に早くから採り入れてきたハーブの一つです。

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メディカルハーブとして用いるのは、葉、実になります。葉に血管弛緩と血圧降下、血糖低下作用のほかに悪玉コレステロール値を下げる働きもあり生活習慣病に対する有効性があります。

喘鳴を伴う咳、乾性咳、咽頭炎など呼吸器系の症状を鎮め、消化不良、胸やけ、胃炎、大腸炎、消化性潰瘍などの刺激炎症状態を落ち着かせます。

最近の研究で、含有している抗酸化物質が細胞膜を守り、フリーラジカルによる損傷を受けにくくすることが分かっていて、ガンの成長と加齢を遅らせるのではないかといわれています。

 

◆ 和名  オリーブ

◆ 学名  Oleae folium またはOlea europaea

◆  主要成分 抗酸化物質、苦味配糖体(オレウロペインル)、オレイン、パルメチン、ステアリン、コレステリン、シクロアルテノール、安息香酸

◆ 作用   殺菌作用、殺ウイルス作用、血圧低下作用、解熱作用、鎮静作用、栄養、粘滑による刺激緩和、収斂作用、抗酸化作用  〔種や実〕 緩下作用、胆汁分泌促進作用、コレステロール低減作用

 

 

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すっきりした味と高栄養価の「リンゴとニンジンのミックスジュース」

前回、安曇野・広瀬農園の「風干しりんご」をご紹介しましたが、今回は同農園がつくった「 りんごとニンジンのミックスジュース」についてです。

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りんごとニンジンのミックスジュースは、広瀬農園が減農薬、無化学肥料栽培で収穫したリンゴ・フジを使用しています。

通常、フジのみのリンゴジュースが多くかなり糖度が強くなります。同農園では、より飲みやすく栄養価も上がるようにフジのジュースにやはり減農薬、無化学肥料栽培のニンジン、さらにユズ果汁をブレンドしました。

これによって、甘過ぎずすっきりとした後味のいいジュースができ上がりました。すべて天然の果物と野菜のジュースで色合いも良く、ユズ果汁を適量入れたことによりさっぱりとした風味とリンゴらしい酸味がほんのりでき上がりました。

後味のすっきりしたヘルシージュースですので、小さなお子様から大人の方まで楽しんでお飲みいただけます。

 

〔  りんごとニンジンのミックスジュース  〕      180ml   280円(税込み )

 

*〔  りんごとニンジンのミックスジュース 〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

 

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バスで巡る北アルプスの雪形観察会が開かれます

北アルプスの峰々にこの時期見られる雪形を見て回るバスツアーが、5月11日(土)に開かれます。

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「(雪形の)○○が見えたら豆を蒔け」「○○が出たら籾を蒔け」などと、里に住む人たちは、山の残雪模様や雪の融け具合をみて田植え、畑の種まきの目安にして来ました。カレンダーに頼るより、雪形の状態をみて農作業をしたほうが正確だったといいます。

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農家の人たちにとって、雪形という自然の変化を読み取って農作業に生かす生活の知恵が代々、農事暦として伝承されてきました。

雪形がそのまま山名として定着した山もあります。

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雪形探訪バスツアーは、同日7時30分~16時30分の予定で講師が解説しながら貸し切りバスで見て回ります。定員は30人程度で先着順になっています。

参加費は2,500円(バス代・保険費など)で、小学生以上が対象です。集合・解散は安曇野市豊科南穂高の田淵行雄記念館前です。

持ち物として、昼食、飲み物、敷き物、歩きやすい服装と靴、帽子、雨具、筆記用具などが必要です。

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参加申し込みと、詳しい問い合わせ先は田淵行雄記念館(☎0263・72・9964)です。

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掲載写真はいずれもイメージになります。

 

 

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鬼師が遺した飾り瓦 ~ 鍾馗もいろいろ

「遠くとも一生一度は詣れ」と昔からいわれた善光寺。江戸時代から各地の街道に善光寺へ向かう道として「善光寺道」の名がつくほど往還や宿場は賑わいました。

人々 が行き交うといろいろな生活情報が伝わり、屋根瓦にも西国の飾り瓦を上げる風習が伝わりました。西国からの人々が善光寺を往来した街道の一つに北国西往還 (善光寺西街道)がありますが、多くの宿場とその周辺の屋根に鍾馗、恵比寿、大黒をはじめとした装飾瓦を見ることができます。

しかし、善光寺のある長野市に入ると飾り瓦の数が減り、瓦鍾馗も姿を消すかのように少なくなります。

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善光寺を目前に犀川越えの渡しを控え、すぐ近くに
丹波島宿があり、ここに7体の鍾馗がありますが、他地域では2カ所以外見ることができません。

そのうちの一体が、同市稲葉の民家の小屋根に上がっています。上の写真でいうと戸袋の近くになります。

右手に握っていた刀剣が欠損していますが、口を固く結んで大きな目で邪鬼を睨みつけています。    

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『鍾馗さんを探せ!!』の著書があり、全国の瓦鍾馗蒐集の旅を続けている小沢正樹さんに教えていただき見て来ました。

その小沢さんが安曇野へ来られた折に発見した豊科高家(たきべ)の小屋根の上に飾られていた鍾馗です。

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全国を探訪しているだけあって、嗅覚が働くのでしょうか? 短時間のうちに探してきました。

瓦鍾馗といえば、上の写真のように長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で悪霊や疫病を家に寄せつけないため睨みをきかせている姿で表されます。

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筑北村には鍾馗の姿を模ったものではなく、文字を刻んだ鬼瓦がありました。「鍾馗」の文字で悪霊は退散するのかな?と拍子抜けしました。

しかも鍾馗さんの鍾の文字が、「鐘」に化けています。

こちらも、鐘になっています。

「少し線が細いな、もっと肉太な文字にして悪霊に睨みを利かせて欲しいな」と思ったのですが…。

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そして、これは極めつけといったところでしょうか。「鍾鬼」と刻まれた文字瓦です。小鬼を退治するのが鍾馗さんで、鍾馗は「鬼」ではないはず。

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瓦職人さんの遊び心? それとも単なるミステークなのでしょうか。

これも分かりません。

 

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赤レンガ建造物を尋ねて-9   テニアン島で壊滅した歩兵第50聯隊の兵営跡(松本市)

歩兵第50聯隊(れんたい)の編成下令(かれい=命令が下されること)は明治38(1905)年で、同41年になって松本に兵営が完成し兵士が入営しました。

この年、長野県下で徴兵された最初の初年兵が入隊したことから、歩兵第50聯隊は名実ともに「長野の部隊」となります。

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兵営は松本市旭町にありました。戦後、軍隊が解体しましたので兵営全体が信州大学松本キャンパスに生まれ変わりました。

現在の医学部付属病院の入り口に営門がありました。

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上の画像は、陸上自衛隊松本駐屯地内にある資料室に展示されている50聯隊の兵舎を俯瞰した模型図です。資料写真などを見るとさまざまな兵舎は、レンガ造のものがかなり多かったことが分かります。

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戦後、松本キャンパスを造るにあたって多くの建造物が取り壊されましたが、現在、かろうじて当時のレンガ造建物が2棟残っています。

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一つは現在、医学部が備品庫として使用している赤レンガ造の建物で、以前は病理学教室、教職員組合事務所として使用されたこともあったようです。

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現在、備品庫としての性格上、人の往来も少ないこともあってか周囲は雑草が生い茂った状態になっています。

その入り口に、かなり短く切断された門柱が装飾的に置かれています。

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このレンガ棟が聯隊当時、何に使われていたかというと、上の模型見取り図を見ると糧秣庫(りょうまつこ)になっていたことが分かります。「秣」はマグサを指します。つまり、軍馬用食糧の干し草などの保存庫ということです。

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飼い葉を保存するのに似つかわしくないほど立派なレンガ棟と思われますが、当時馬は軍にとって貴重なものでした。

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階級の高い軍人が乗る軍馬は大切にされ、「前線では人(兵士)よりも馬のほうが大事にされた」という兵士の証言もあるほどです。馬の飼葉庫としての赤レンガ棟もうなづけるところではないでしょうか。

軍の施設ですので、装飾性はほとんど省いています。

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ところで、歩兵第50聯隊は編成されてから大正2(1913)年から1年半にわたりシベリア出兵に参加します。

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昭和6(1931)年の満州事変の勃発で上海に上陸していますし、昭和12年の盧溝橋事件で日中全面戦争に拡大したことから4度目の中国出兵で参戦しています。同16年には満州(遼陽)に駐屯しています。

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太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に、中部太平洋派遣命令が出て歩兵第50聯隊2800人はテニアン島の守備に就きま す。テニアン島は、他の部隊も合わせ8100人が守備隊として編成されましたが、米軍の猛烈な砲爆撃にさらされ戦闘初日で主力の大半を失ったといいます。

戦闘10日目に生き残った兵士と民間人義勇隊を合わせた1000人が、聯隊長の指揮のもと、最後の玉砕攻撃を行い壮烈な戦死を遂げます。

松本・歩兵第50聯隊はこの日をもって壊滅します。

現存するもう一棟は、備品庫から100mほど西側にあります。現在、学生のサークル室として使用されていて、表の入り口側のレンガ壁面はスプレー塗装されています。塗装されたことでレンガの風合が消えてしまっています。

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自衛隊駐屯地内の資料室のジオラマで確認すると、兵士の炊事場として使用されていた建物の一部になります。

裏側は周囲も雑然としていますが、壁面は塗装されていません。後になってレンガを継ぎ足して塞ぎ、新たに出入り口を造った跡が見てとれます。

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当時は、棟が長く炊事場の隣りに浴室が併設されていました。

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浴室になっていた部分と炊事場の一部が平成6(1993)年に取り壊され、跡地は現在、駐車場となっています。

どうしてここだけが取り壊されず残ったのかは分かりません。

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一番上の白黒写真で隊列を組んだ兵士が営門を通る姿があります。この営門は残っていないか調べていたところ現存していました。

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陸上自衛隊松本駐屯地内の「秀峰館」の額が掛かる資料室の玄関に移転して建っていました。

本来のものは3mほどあったのですが、切りつめて2m弱になっています。

かなりの重量で、屈強な隊員数人で運んだという話しが残りますが、切りつめた1mほどの残りは、旧糧秣庫の入り口前にある50cmほどの門とは材質が違っています。どこにいったかは判然としません。

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切り詰めて縮小されたとはいえ、歴史ある営門が残っていたことに安堵しました。

ただ一昨年6月30日、松本市を震度5強の地震が襲い、多くの被害がでました。この時、3基のうちの真ん中に設置していた門柱が45度ほど大きく動いたといいます。

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本来の位置に戻しましたが亀裂が残り、揺れの大きさを物語ります。それ以来「危険」の張り紙を貼りだしています。

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設置場所は変わっていますが、100有余年松本の地にあってさまざまな歴史を見てきた3基の営門遺構は、陸上自衛隊の手によって保存されていました。

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資料室は歩兵第50聯隊の史料をはじめ多くの展示物がありますが、中には、映画『硫黄島からの手紙』の主人公で長野出身の栗原忠道中将の手紙をはじめ数々の遺品も展示されています。

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また、歩兵第50聯隊の調査研究には貴重な資料なども保存されています。

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* 旧歩兵第50聯隊糧秣庫は今年8月に国の登録有形文化財に登録されました。これを機に大学側では、耐震補強をした上で内部をカフェテリアや会議室など市民も使えるスペースに改装する予定だということです。

 

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漆喰細工を尋ねる旅-1   空襲の業火から免れた長八の天孫降臨図 (東京・品川)  

これまで「信州の鏝絵に見る左官職人の技」として長野県で見ることができる漆喰鏝絵をご紹介して来ましたが、パートⅡとして「漆喰細工を尋ねる旅」のタイトルで掲載を続けます。まず東日本を中心に探訪します。

日本建築の伝統的な技を磨いた左官職人が遺した漆喰細工の素晴らしさをお楽しみください。

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鏝絵の創始者・入江長八による漆喰細工で東京都内に遺っているのは、二カ所のみになっています。

そのうち東品川の寄木神社には、土蔵造りの本殿の戸前に神話「天孫降臨」を描いた作品が遺っています。

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耐火、耐震性で優れた土蔵造りが、たび重なる江戸時代の大火、大正期の関東大震災、昭和20(1945)年の東京大空襲などの惨禍から、からくも長八の漆喰細工を守ってきました。

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戸前に描かれているのは、向かって右側が、天降する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の前に道案内役として待ち受ける猿田彦命(さるたひこのみこと)です。

葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)は、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国造りをしたものの、もめごとが絶えない国だったため、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて瓊瓊杵尊が国を治めようと高天原(たかまのはら)から高千穂に降りた時に、道先案内をしたのが猿田彦命です。

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背は高く、鼻は長く、顔は赤く、眼は鏡のようにきらめき、光り輝く姿で現れました。

長八は、口を半開きにした猿田彦命の顔に玉眼を入れ、鼻を異様に長く猿のような面持ちで猿田彦命を描き、肉厚に塗り上げています。

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身体は褐色に塗り、筋肉や血管などの細部まで描き、天狗とも見紛う精悍さが伝わってきます。

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それでいて身にまとう衣服などに細かな模様を施して柔らかさも出しています。

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左扉に描かれているのは、瓊瓊杵尊と天鈿女命(あまのうずめのみこと)です。

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上部の瓊瓊杵尊は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を立て、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を胸に抱いています。

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着衣や剣の柄など細かい部分にもやはり装飾文様を入れています。

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下に天照大御神の岩戸隠れの時に、神懸りをした踊りを踊った天鈿女命は自ら着衣を開き、豊かな乳房を猿田彦に見せつけています。

長八は瓜実顔の天鈿女命とお多福を、よく画題に用いたようです。蔵普請すると必ず二つの像を漆喰で作り蔵に置かせたといいます。この二人の醜女(しこめ)を前に「醜いものは魔除け、厄除けになり、財産を守り財を招く神になる」と語ったそうです。

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伊豆の長八こと入江長八は、文化12(1815)年に現在の静岡県松崎町に生まれ、文政9(1826)年に11歳で左官・関仁助に弟子入りし、19 歳になった天保4(1833)年に江戸に出て、日本橋の左官棟梁・波江野亀次郎のもとで左官の仕事に従事するかたわら狩野派の絵を学びます。

後に独立して深川に住み左官業を営むかたわら、鏝を駆使した独特の漆喰鏝絵を生みだします。天賦の画才能に加え熱心な研究心で、漆喰の灰汁止に漆を使って自由に彩色するなど芸術の域にまで発展させました。

長八の子孫、入江修治さんの話では「物静かで仕事熱心で、金銭にこだわらない性格だった、と聞いています」と語っています。

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後で感じたのですが、長八は寄木社の戸前を描くにあたって土蔵を天照大神が隠れた天岩屋に見立てて絵柄を着想したのではないかと思いました。そんな雰囲気を醸しだす土蔵の造りです。

江戸に住む長八は、たびたび郷里の伊豆・松崎に帰郷しています。往還する長八にとって品川宿は馴染みの場所で、寄木神社は東海道五十三次の初めの宿駅として栄えた品川宿のすぐ近くにあります。

長八は宿周辺に多くの鏝細工を遺していたといいますが、空襲による業火とともに焼失し、現在残っているのはこの寄木神社のほかに千住橋戸の稲荷神社のみになっています。

寄木神社の天孫降臨の鏝絵は、猿田彦命の着衣の一部に剥落が生じたことから絵面の剥離防止処理がされ品川区指定文化財として保存されています。

 

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オオルリとカタクリの観察会が今月下旬開かれます

安曇野の高地に春の訪れを告げる野鳥のオオルリとカタクリの花の観察会が今月27日(土)と28日(日)に開催されます。

オオルリはその美声から日本三鳴鳥ともいわれ、瑠璃(るり)色の美しい姿からバードウォッチングでも人気のある野鳥です。

カタクリは、湿地の草原に咲く早春の赤紫色の可憐な花が人々を魅了します。

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オオルリ観察会は、4月27日、28の両日で各日とも午前8時30分~11時で安曇野市堀金烏川の烏川森林緑地の水辺緑地が観察場所になります。参加費は無料で、各日とも定員30人です。持ち物は双眼鏡、図鑑などですが、貸し出しもあります。

カタクリ観察会は、4月27日午後1~3時で小雨決行です。こちらも参加費は無料、定員30人で事前の申し込みが必要で先着順になります。持ち物としては雨具、飲み物などが必要です。

集合場所は、オオルリ観察会は烏川渓谷緑地  水辺エリア管理事務所前、またカタクリ観察会は、烏川渓谷緑地  森林エリアホテル駐車場になります。

参加申し込みと問い合わせは、烏川渓谷緑地  環境管理事務所 (☎0263・73・0203、 E-mai l : karasu@anc-tv.ne.jp)です。

 

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早春の安曇野は芽吹きの時を迎えています

安曇野は例年より7日ほど早く桜が咲きだしましたが、咲き始めてから雪が降ったり、連日のように強風が吹いたりして花散らしの天候が続き、街中や里山の枝垂れ桜やソメイヨシノなどは、そろそろ葉桜になりつつあります。

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それに代わって、深山のヤマザクラが咲きだしています。上は池田町陸郷の山中に咲いた昨日の風景です。山に囲まれた谷あいに自生していますので風の影響もさほど受けず、あと1週間は咲き誇っているのではないでしょうか。

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安曇野の早春は例年ですと、ザゼンソウやミズバショウがいち早く咲きだし、梅が咲き桜へと徐々に移り変わっていくのですが、今年は梅の花が終わらないうちに桜も開花しました。

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そして、標高が800~1000mのやや高いところではカラマツやオニグルミ、キブシ、カタクリなどが一斉に芽ぶき始めています。

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安曇野の早春が一度に押し寄せてきた感があります。

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天候変動、地球温暖化のなせる影響なのでしょうか。なにか今年の春はいつもと違っているように見えるのは、思い過ごしなのでしょうか。

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いずれも昨日撮った芽吹きの状態です。

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カタクリは昨年と比べ、少なくも10日は早く咲きだしています。

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これでは採蜜にやって来るヒメギフチョウの羽化も間に合わないかもしれません。

 

 

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安曇野の記念年 愛唱歌『早春賦』が生まれて100年の催し

突然ですが『早春賦(そうしゅんふ)』という唱歌をご存知でしょうか。

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷融け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

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『早春賦』は長い冬の厳しさが緩み、やっと訪れた早春の情景を描写した歌で、歌の背景に安曇野の自然を映しているといわれます。吉丸一昌の作詞、中田章が作曲し、大正2(1913)年に発表されました

3、4日前から安曇野にも桜が咲き始め鶯の初鳴きも耳にして春の兆しを感じたのですが、昨朝はその桜の花びらに雪が冠りしました。「春は名のみの 風の寒さや」の歌詞そのままの春先の風景です。

早春賦は、文化庁と日本PTA全国協議会が選定した『日本の歌百選」にも選ばれています。

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安曇野市では、この歌詞と楽譜などを刻んだ歌碑を建て、周辺を早春賦公園として整備しています。この歌碑の前で例年、「早春賦まつり」が催され、歌い継がれて来て30年になります。

1913年に作られていますので、今年は生誕100年の記念年になります。

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記念年の今年、いろいろな催しが開かれています。

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これからの催しとして

○ 4月28日(日) 午後6時から(開場 5時30分) 豊科公民館ホール 入場無料

早春賦まつり前夜祭  上松美香&宗次郎コンサート

*  4月17日までに往復はがき、あるいはメールでの応募が必要です。一人につき4人まで申し込めます。詳しくは、☎0263・82・6622にお問い合わせください。

○ 4月29日(月・祝) 午後1時30分から あづみ野コンサートホール 入場無料

第12回早春賦まつりコンサート

○ 4月29日(月・祝) 午前11時から 穂高川右岸早春賦歌碑前

第30回 早春賦まつり

* 穂高駅前から無料シャトルバスが運行されます。詳しくは、☎0263・82・6622にお問い合わせください。

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歌碑のある早春賦公園のすぐ近くには、わさびの栽培地があり見学できます。

ゴールデンウィークの前半に安曇野を訪れる時、これらの催しにも立ち寄る計画を立ててみてはいかがでしょうか。

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安曇野も桜が開花しました

安曇野も桜の花咲く季節を迎えました。

今年の冬の寒さが厳しく、降雪も多かった思いが例年にも増して強かっただけに、桜が咲きだした知らせは格別の喜びがあります。

3月に入ってからの積算気温が急に上昇したからでしょう。いつもと比べ開花は7日ほど早いようです。

開花と言っても、まだ5~6分咲きといったところでしょうか。花散らしの風や雨がなければ、これから7~10日ほど楽しめるはずです。

安曇野は何といっても幾本もある枝垂れ桜の古木が見ものです。風が吹くと長い枝がしなやかに揺れて、薄いピンクの花色をつけたまま動きをみせます。たおやかな強さを見せてくれます。

 

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Img_7513                       岩原の枝垂れ桜

 

Img_7519                      多田井の大枝垂れ桜

 

Img_7535_2                       観音堂の枝垂れ桜

 

Img_7559_2                       本村の枝垂れ桜

 

Img_7570                         黒沢川の堤防

 

Img_7573                           拾カ堰公園

 

Img_7578                      豊科北小学校校庭の御殿桜

 

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