赤レンガ建造物を尋ねて-9   テニアン島で壊滅した歩兵第50聯隊の兵営跡(松本市)

歩兵第50聯隊(れんたい)の編成下令(かれい=命令が下されること)は明治38(1905)年で、同41年になって松本に兵営が完成し兵士が入営しました。

この年、長野県下で徴兵された最初の初年兵が入隊したことから、歩兵第50聯隊は名実ともに「長野の部隊」となります。

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兵営は松本市旭町にありました。戦後、軍隊が解体しましたので兵営全体が信州大学松本キャンパスに生まれ変わりました。

現在の医学部付属病院の入り口に営門がありました。

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上の画像は、陸上自衛隊松本駐屯地内にある資料室に展示されている50聯隊の兵舎を俯瞰した模型図です。資料写真などを見るとさまざまな兵舎は、レンガ造のものがかなり多かったことが分かります。

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戦後、松本キャンパスを造るにあたって多くの建造物が取り壊されましたが、現在、かろうじて当時のレンガ造建物が2棟残っています。

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一つは現在、医学部が備品庫として使用している赤レンガ造の建物で、以前は病理学教室、教職員組合事務所として使用されたこともあったようです。

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現在、備品庫としての性格上、人の往来も少ないこともあってか周囲は雑草が生い茂った状態になっています。

その入り口に、かなり短く切断された門柱が装飾的に置かれています。

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このレンガ棟が聯隊当時、何に使われていたかというと、上の模型見取り図を見ると糧秣庫(りょうまつこ)になっていたことが分かります。「秣」はマグサを指します。つまり、軍馬用食糧の干し草などの保存庫ということです。

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飼い葉を保存するのに似つかわしくないほど立派なレンガ棟と思われますが、当時馬は軍にとって貴重なものでした。

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階級の高い軍人が乗る軍馬は大切にされ、「前線では人(兵士)よりも馬のほうが大事にされた」という兵士の証言もあるほどです。馬の飼葉庫としての赤レンガ棟もうなづけるところではないでしょうか。

軍の施設ですので、装飾性はほとんど省いています。

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ところで、歩兵第50聯隊は編成されてから大正2(1913)年から1年半にわたりシベリア出兵に参加します。

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昭和6(1931)年の満州事変の勃発で上海に上陸していますし、昭和12年の盧溝橋事件で日中全面戦争に拡大したことから4度目の中国出兵で参戦しています。同16年には満州(遼陽)に駐屯しています。

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太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に、中部太平洋派遣命令が出て歩兵第50聯隊2800人はテニアン島の守備に就きま す。テニアン島は、他の部隊も合わせ8100人が守備隊として編成されましたが、米軍の猛烈な砲爆撃にさらされ戦闘初日で主力の大半を失ったといいます。

戦闘10日目に生き残った兵士と民間人義勇隊を合わせた1000人が、聯隊長の指揮のもと、最後の玉砕攻撃を行い壮烈な戦死を遂げます。

松本・歩兵第50聯隊はこの日をもって壊滅します。

現存するもう一棟は、備品庫から100mほど西側にあります。現在、学生のサークル室として使用されていて、表の入り口側のレンガ壁面はスプレー塗装されています。塗装されたことでレンガの風合が消えてしまっています。

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自衛隊駐屯地内の資料室のジオラマで確認すると、兵士の炊事場として使用されていた建物の一部になります。

裏側は周囲も雑然としていますが、壁面は塗装されていません。後になってレンガを継ぎ足して塞ぎ、新たに出入り口を造った跡が見てとれます。

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当時は、棟が長く炊事場の隣りに浴室が併設されていました。

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浴室になっていた部分と炊事場の一部が平成6(1993)年に取り壊され、跡地は現在、駐車場となっています。

どうしてここだけが取り壊されず残ったのかは分かりません。

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一番上の白黒写真で隊列を組んだ兵士が営門を通る姿があります。この営門は残っていないか調べていたところ現存していました。

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陸上自衛隊松本駐屯地内の「秀峰館」の額が掛かる資料室の玄関に移転して建っていました。

本来のものは3mほどあったのですが、切りつめて2m弱になっています。

かなりの重量で、屈強な隊員数人で運んだという話しが残りますが、切りつめた1mほどの残りは、旧糧秣庫の入り口前にある50cmほどの門とは材質が違っています。どこにいったかは判然としません。

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切り詰めて縮小されたとはいえ、歴史ある営門が残っていたことに安堵しました。

ただ一昨年6月30日、松本市を震度5強の地震が襲い、多くの被害がでました。この時、3基のうちの真ん中に設置していた門柱が45度ほど大きく動いたといいます。

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本来の位置に戻しましたが亀裂が残り、揺れの大きさを物語ります。それ以来「危険」の張り紙を貼りだしています。

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設置場所は変わっていますが、100有余年松本の地にあってさまざまな歴史を見てきた3基の営門遺構は、陸上自衛隊の手によって保存されていました。

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資料室は歩兵第50聯隊の史料をはじめ多くの展示物がありますが、中には、映画『硫黄島からの手紙』の主人公で長野出身の栗原忠道中将の手紙をはじめ数々の遺品も展示されています。

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また、歩兵第50聯隊の調査研究には貴重な資料なども保存されています。

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* 旧歩兵第50聯隊糧秣庫は今年8月に国の登録有形文化財に登録されました。これを機に大学側では、耐震補強をした上で内部をカフェテリアや会議室など市民も使えるスペースに改装する予定だということです。

 

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