漆喰細工を尋ねる旅-1   空襲の業火から免れた長八の天孫降臨図 (東京・品川)  

これまで「信州の鏝絵に見る左官職人の技」として長野県で見ることができる漆喰鏝絵をご紹介して来ましたが、パートⅡとして「漆喰細工を尋ねる旅」のタイトルで掲載を続けます。まず東日本を中心に探訪します。

日本建築の伝統的な技を磨いた左官職人が遺した漆喰細工の素晴らしさをお楽しみください。

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鏝絵の創始者・入江長八による漆喰細工で東京都内に遺っているのは、二カ所のみになっています。

そのうち東品川の寄木神社には、土蔵造りの本殿の戸前に神話「天孫降臨」を描いた作品が遺っています。

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耐火、耐震性で優れた土蔵造りが、たび重なる江戸時代の大火、大正期の関東大震災、昭和20(1945)年の東京大空襲などの惨禍から、からくも長八の漆喰細工を守ってきました。

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戸前に描かれているのは、向かって右側が、天降する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の前に道案内役として待ち受ける猿田彦命(さるたひこのみこと)です。

葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)は、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国造りをしたものの、もめごとが絶えない国だったため、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて瓊瓊杵尊が国を治めようと高天原(たかまのはら)から高千穂に降りた時に、道先案内をしたのが猿田彦命です。

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背は高く、鼻は長く、顔は赤く、眼は鏡のようにきらめき、光り輝く姿で現れました。

長八は、口を半開きにした猿田彦命の顔に玉眼を入れ、鼻を異様に長く猿のような面持ちで猿田彦命を描き、肉厚に塗り上げています。

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身体は褐色に塗り、筋肉や血管などの細部まで描き、天狗とも見紛う精悍さが伝わってきます。

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それでいて身にまとう衣服などに細かな模様を施して柔らかさも出しています。

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左扉に描かれているのは、瓊瓊杵尊と天鈿女命(あまのうずめのみこと)です。

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上部の瓊瓊杵尊は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を立て、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を胸に抱いています。

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着衣や剣の柄など細かい部分にもやはり装飾文様を入れています。

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下に天照大御神の岩戸隠れの時に、神懸りをした踊りを踊った天鈿女命は自ら着衣を開き、豊かな乳房を猿田彦に見せつけています。

長八は瓜実顔の天鈿女命とお多福を、よく画題に用いたようです。蔵普請すると必ず二つの像を漆喰で作り蔵に置かせたといいます。この二人の醜女(しこめ)を前に「醜いものは魔除け、厄除けになり、財産を守り財を招く神になる」と語ったそうです。

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伊豆の長八こと入江長八は、文化12(1815)年に現在の静岡県松崎町に生まれ、文政9(1826)年に11歳で左官・関仁助に弟子入りし、19 歳になった天保4(1833)年に江戸に出て、日本橋の左官棟梁・波江野亀次郎のもとで左官の仕事に従事するかたわら狩野派の絵を学びます。

後に独立して深川に住み左官業を営むかたわら、鏝を駆使した独特の漆喰鏝絵を生みだします。天賦の画才能に加え熱心な研究心で、漆喰の灰汁止に漆を使って自由に彩色するなど芸術の域にまで発展させました。

長八の子孫、入江修治さんの話では「物静かで仕事熱心で、金銭にこだわらない性格だった、と聞いています」と語っています。

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後で感じたのですが、長八は寄木社の戸前を描くにあたって土蔵を天照大神が隠れた天岩屋に見立てて絵柄を着想したのではないかと思いました。そんな雰囲気を醸しだす土蔵の造りです。

江戸に住む長八は、たびたび郷里の伊豆・松崎に帰郷しています。往還する長八にとって品川宿は馴染みの場所で、寄木神社は東海道五十三次の初めの宿駅として栄えた品川宿のすぐ近くにあります。

長八は宿周辺に多くの鏝細工を遺していたといいますが、空襲による業火とともに焼失し、現在残っているのはこの寄木神社のほかに千住橋戸の稲荷神社のみになっています。

寄木神社の天孫降臨の鏝絵は、猿田彦命の着衣の一部に剥落が生じたことから絵面の剥離防止処理がされ品川区指定文化財として保存されています。

 

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