ガーデンの無料公開を始めています

ハーブスクエアの今年のハーブガーデンの無料公開を始めました。

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ことしは春先から気温の不順な日が続いたことなどから、全体として開花が例年よりも遅くなっています。

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このようなことから個々の生育も遅れていますが、開花するものも出始めていますのでオープンしました。

どうぞ、ごゆっくりご鑑賞ください。

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ガーデンは例年、花がきれいに咲いている時季のみオープン期間とし7月末日までの予定です。公開時間は午前9時30分から午後4時30分になります。

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なお、ガーデン散策に当りまして次のルールを守っていただけますようお願い申し上げます。

① 植え込みの中には入らぬようお願い申し上げます。

② 小学生以下の子どもさんの単独入場はできません。

③ ペットの連れ込みと、園内での飲食、喫煙はできません。

④ 写真撮影は自由ですが、通路が狭いため三脚のご使用はご遠慮ください。

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なお、スタッフが手入れ作業をしていることが あります。あらかじめご了承ください。

 

 

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赤レンガ建造物を尋ねて-11   活況に沸いた製糸業の遺産(岡谷市)

江戸末期の安政6(1859)年に横浜が開港され、外国との貿易が始まると日本の生糸は輸出品の花形として注目されます。

明治政府も蚕糸業を殖産興業として捉え、フランスなどから洋式技術を導入します。岡谷でも機械製糸によって生産量を伸ばす製糸家が現れ、いくつもの工場ができます。

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明治13(1880)年には、長野県は生糸生産高で群馬県を抜いて全国1位となり、岡谷を中心に製糸王国の基礎が確立しました。

やがて日本は世界一の生糸生産国となり、輸出品のほぼ半分を生糸が占め外貨獲得に大きく貢献するようになります。そんななかで岡谷の製糸業は全盛期を迎えます。

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岡谷に製糸工場が林立しましたが、なかでも規模を広げたのが、片倉組、山一林組、山十組などが有力でした。

いま、岡谷市内に往時の面影をしのばせる建造物が遺っています。赤レンガ造りの建て物としては、山一林組(中央町1丁目)と片倉組(川岸1丁目)の事務所棟です。

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山一林組の建て物内部は現在、「絹工房」として市民が生糸を織る体験学習の場として活用されています。

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当時の器具備品類も、一部当時のまま残っています。下は壁に据えられた配電盤です。他にも糸撚り機、大型金庫、テーブルなど多くのものが残り、再活用されています。

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ところで、山一林組では、待遇改善を求めて昭和2(1927)年に当時としては最大規模の1,300人、うち9割が女子工員が参加する労働争議が起こりました。

労使双方は、ストライキ、工場閉鎖を決行し19日間にわたる長期の争議になったといいます。          Img_7031

明治43(1910)年に建築された片倉組の事務所は、国登録有形文化財となっています。

片倉組はいち早く機械製糸を導入するとともに、蚕品種の改良、養蚕農家との契約で優良品質の生糸生産に成功し、さらに様々な分野の事業に手を広げていきます。

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片倉は製糸業を中心とした大企業、いわゆるコンツェルンを形成し片倉財閥ができあがります。日本全国はおろか台湾、朝鮮まで業務を拡張しました。三井・三菱の大財閥に次ぐ勢いがありました。

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しかし戦後、マッカーサーによる財閥解体の指令により、再び大きく立ち直ることはありませんでした。

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製糸事業を大きく発展させていた大正9(1920)年、片倉組は株式会社に改組し本社を東京に移しますが、本社事務の一部はここに残りました。

事務所棟の横に赤レンガ棟の蔵があります。備品庫 として使用していたのでしょうか。折れ釘も8本付いています。

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現在は関連会社の印刷会社の事務所として使用・保存されています。

 

 

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鬼師が遺した飾り瓦 ~ 間宿にあった鬼瓦(佐久市)

中山道の間宿(あいのしゅく)だった茂田井宿(佐久市)。間宿とは、江戸幕府が正式に認可されていなかった“旅籠”で、認可されていた宿場間にありました。

宿場間の距離が離れている場合、旅人は難儀しますがこうした便宜のため自然発生的に興ったといいます。茂田井宿は、芦田宿(佐久市)と望月宿(佐久市)の間にできた休憩所になります。

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幕末に水戸天狗党が挙兵し、尊皇攘夷の志を朝廷に奏上するため中山道を上り上洛する時、この宿に400人余りが宿泊したそうです。また、14代将軍家茂に嫁ぐことになった和宮もここを通って江戸へ向かったという歴史があります。

ここに3体の瓦鍾馗があります。

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いずれも鍾馗ガールことnaoさんが発見しました。二人で相談し、中山道の旧宿場町を探索してみようと計画を立て、いくつかの宿場を単独行するなかで見つけだしています。

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3体とも小振りで、上がっている場所が目につきにくいところです。後日、尋ねてみましたが、なかなか探し当てられません。「3体ある」という事前情報がなければ、見落としていたかも知れません。

時間は掛かりましたが、ご対面することができました。

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ところで、この鍾馗さんの後部に白く囲んだものが見えますが、これは「影盛」といいます。

箱棟が大きくなると軒を飾る鬼瓦も大きくしなければならず、屋根に重量が掛かってしまいます。このため木の骨組みを作り、漆喰を塗り込めて重量を軽減します。

こうして鬼瓦のボリュウム感と全体のバランスを取ります。漆喰を使い鏝(こて)による細工になりますので、左官職人さんが影盛を作ります。

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この茂田井宿で見た他の飾り瓦も掲載しておきます。

鯉に乗っている人物と言えば、やはり琴高仙人でしょう。顔があまりにも若作りですが鯉の背に乗る人物は琴高仙人しかいませんので、これを制作した鬼師は若作りにすることで何か意味を持たせたのでしょうか。

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一部が破損していますが、鶴の鬼瓦です。五三桐の紋様も見えます。

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こんなかわいい竹林に遊ぶ雀の軒丸瓦もありました。

 

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メディカルハーブー48   ジンジャー

和名ショウガでなじみのある南アジア原産の辛いスパイスです。身体を温めエネルギーを与える作用は、紀元前500年に記された孔子の書物や2000年前に編まれたインドの医学書にも登場します。

メディカルハーブとして用いるのは、根茎と葉になります。食欲と消化の改善に役立ち、消化器系の痛み、けいれん、消化不良、膨満、胃腸内のガス、あるいは食物アレルギーに有用です。

また、下痢による差し込むような腹痛、乗り物酔い、つわり、二日酔いにも効果があります。

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循環器系では、心臓と血行を刺激して、血液を凝固しにくくします。末梢循環不良、霜やけ、レイノー病などに用いられます。

喉の痛みや風邪、インフルエンザの徴候が出たとき、すぐに熱いティーを飲むと熱を下げてカタルを解消し、感染症を退ける効果があります。

月経の遅れ、過少月経、凝血塊に用いられるほか排卵痛、子宮内膜症による月経痛の緩和にも有効性が確認されています。

 

◆ 和名  ショウガ

◆ 学名  Zingiber officinale

◆  主要成分 揮発性油(ジンゲロン、ジンゲロール、カンフェン、ボルネオール、フェランドレン、シトラール等)

◆ 作用   循環刺激作用、駆風作用、消化促進作用、去痰作用、利尿作用、性欲促進作用、制吐作用、鎮痛作用、抗炎症作用、発汗作用、鎮頸作用、免疫強壮作用、抗菌作用、抗酸化作用

 

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漆喰細工を尋ねる旅-3   長八が育てた漆喰細工の弟子たち (東京・四谷) 

四谷見附の左官・沓亀こと吉田亀五郎が制作した5点の扁額が、四谷の総鎮守・須賀神社に奉納され、拝殿に飾り展観 しています。

そのうちの1点が、彩色された素戔嗚尊(すさのおのみこと)の大蛇退治の一場面を描いた作品です。

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吉田亀五郎が八俣の大蛇(おろち)を征伐する素戔嗚尊の姿を淡彩で描き、額縁の大蛇の細工は亀五郎の門弟・伊藤菊三郎が制作したといいます。

この作品は、もともとは明治30(1897)年の須賀神社大祭にあたり、旧四谷伝馬町の御神酒所飾りとして奉納されたもので、祭礼神酒所に飾られていました。

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大正4(1915)年の大正天皇即位の御大典記念として須賀神社に奉納されたといいます。

須賀神社の須賀とは、素戔嗚尊が出雲の国で一つの身体に八つの頭と八つの尾を持った八俣の大蛇を討ち取り、その縁で櫛名田比売(くしなだひめ)と結ばれ新居を持つため訪れた地が気に入り、「吾れ此の地に来たりて心須賀須賀し」と感嘆し、そこに宮を造ったという神話に由来します。

従って須賀神社の主祭神は素戔嗚尊になりますので、奉納場所が変わったこともうなずけるところです。

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ほかの4点の鏝絵は白漆喰を塗り重ねた鏝絵で、須賀神社の境内にあった大鳥神社の土蔵戸前に明治27(1894)年に制作したものです。

このうち2点が唐獅子、他の2点が温め鳥(ぬくめどり)を描いた大作です。

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唐獅子は唐(=中国)伝来の獅子(=ライオン)ですが、仏教にも所縁のある霊獣で、魔除け、聖域守護の意味でよく描かれます。

狛犬と一対のものとして扱われる場合が多いのですが、本来は知恵の神とされる文殊菩薩に従う神獣とされます。「獅子坐」は仏尊の座るところ、「獅子吼」といえば 仏尊の説法を指します。

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鷹と小鳥の図柄を題材にした「温め鳥」です。

冬の寒い夜、鷹は小さな鳥を捕えてその体温で自分の足を温め、夜が明けると放ってやるといいます。そして、鷹はこの後、その鳥の飛び去った方向には決して向かわないともいいます。

鷹は、その優れた飛翔力や鋭い嘴、爪による攻撃力など、精悍なイメージを持つ猛禽類の代表格ですが、自らが受けた恩に報いる例えで使われます。

温め鳥は、冬を表す季語にもなっているそうです。

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拝殿に飾られている鏝絵の中に、もう1点目を惹くものがあります。伊豆の長八が描いた山水画で、額装されています。額縁に奉納の文字とともに寄贈した作家の井上 靖の名が記されています。

井上が叔父のかたみ分けに貰った品で、書斎の片隅に立て掛けてあったものを夫人の提案で須賀神社に奉納することになるのですが、その経緯を小品『土の絵』に記しています。

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入江長八は多くの弟子を育てましたが、明治初期から中期にかけての「鏝細工の五人男」の一人として亀五郎の名があります。

漆喰細工の師弟関係にあっ た亀五郎は長八を慕い、亀五郎の弟子・伊藤菊三郎は「其の長所を慕うさまは乳児が母の乳房を慕うようであった」と語っていることからも長八が亀五郎に計り知れない影響を与えたようです。

亀五郎は温厚な性格で弟子の習作を丁寧に見て指導し、多くの優秀な弟子を育てたいいます。

亀五郎に教えをうけた中には、長八鏝絵の伝統を受け継いだ最後の左官職人といわれた伊藤菊三郎、池戸庄次郎らがおり、藤井平太郎は近年まで活躍していました。

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須賀神社では本殿に、天保7(1836)年に描かれた三十六歌仙絵を飾り展観しています。平安時代中期の公家・藤原公任が優れた歌人三十六名を選定しそれぞれの歌人の肖像画に代表作一首を添えたも ので同社が社宝としているものです。

御内陣金庫のなかにあったことから、東京大空襲の災禍から免れたものです。

 

 

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割れやすい爪や肘、膝、踵の角質を柔らかくする保湿クリーム

肘(ひじ)、膝(ひざ)、踵(かかと)の角質を柔らかくし、爪を艶のあるきれいな爪にするクリームをご紹介します。

皮膚表面はサラッとした感触で、ベタつき感はまったくなく時間の経過とともに潤っている感じを実感できます。

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このクリームは「ハンド&キューティクルクリーム」といい、普通肌の方はもちろん、敏感肌質の方から乾燥肌の方までお使いいただけます。

ハンド&キューティクルクリームを角質部分に塗ると、ひび割れた踵をきれいに修復し黒ずんだ肘や膝を徐々に艶のあるベビースキンに生まれ変わらせます。

また、縦割れや二枚に横割れする爪を丈夫な爪にしますし、ネイルジェルやマニキュアで荒れた爪をきれいで丈夫な爪に再生します。

ハンド&キューティクルクリームは、100%オーガニック植物由来でできています。オーガニックレモンオイルが皮膚軟化作用で角質を柔らかくしますし、キャロットエキスが割れやすい乾いた爪に、潤いと艶を与えます。

 

〔  ハンド&キューティクルクリーム  〕      60g   2,940円(税込み )

 

*〔 ハンド&キューティクルクリーム  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

 

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赤レンガ建造物を尋ねて-10   青春ドラマに実名登場した温泉旅館の塀(松本市)

かつて商都・松本の奥座敷として賑わった浅間温泉街。広いエリアに温泉宿が建ち並びます。

平坦地とやや急な坂道沿いに多くの温泉宿があり、坂の途上にある旅館を赤レンガ塀が囲んでいます。「尾上(おのうえ)の湯旅館」(浅間温泉5丁目)の外塀です。

イギリス積みされたレンガ塀は30mほど続くでしょうか。途中にアーチの裏口があり上部が飾り積みされています。

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平成8(1996)年にフジテレビ系で放送された「白線流し」という連続ドラマがありました。

卒業式の日に学帽の白線とセーラー服のスカーフを一本に結びつけ川に流す卒業生たちの伝統行事を縦糸に、卒業してから恋愛や進路に悩む青春群像を横糸に描いて高視聴率をとった佳作でした。

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白線流しは、岐阜県高山市の高校に伝わる伝統行事ですが、ドラマでは舞台を松本市に置き換え、松本市で多くのロケが行われました。

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その中で、女優を目指しながらも挫折する主人公の女友だちの実家として「尾上の湯旅館」が実名で登場しました。

ドラマの放映が終って年月が経ちますが、今なおロケ地巡りに来る人たちが訪れ宿泊していくほど根強い人気があるそうです。宿泊者は、宿とともに赤レンガ塀もカメラに収めていくといいます。

 

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北アルプスと安曇野を一望する眺望台が新しくなりました

雄大な北アルプスの長く続く峰々と安曇野の街並みを一望できる長峰山(標高934m)の山頂の展望台が新しくなりました。

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これまでの鉄骨製のらせん状階段に代わり4層の木製階段と、100%安曇野産のスギとカラマツ材を使用した外観で高さ15.3mの新展望台です。

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長峰山は安曇野市の東に位置していますので、西側に拡がる北アルプスの山々が一望できます。

望むことのできる山々を列挙すると、北から白馬岳、杓子岳、白馬鑓ケ岳、五竜岳、鹿島槍ケ岳、爺ケ岳、岩小屋沢岳、蓮華岳、餓鬼岳、有明山、燕岳、大天井岳、横通岳、常念岳、蝶ケ岳と2、000mを超える峰が連なっています。

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中でも安曇野のシンボル的存在となっている常念岳と有明山の秀麗な姿を間近に見ることができます。

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目を転じると、犀川、高瀬川、穂高川の三川合流や水が張られた田園風景と街並みの風景も眼下に広がります。

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双眼鏡を携えると、姿を現した雪形の常念坊などを見ることもできます。

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昭和45(1970)年5月に作家の川端康成、井上靖、日本画家の東山魁夷が共に安曇野を旅し、長峰山頂からの眺めを「残したい静けさ、美しさ」と感嘆しました。

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山頂まで車で行くことができることから展望台のある広場は市民の憩いの場になっていて、お昼時には大パノラマを眺めながらお弁当を広げている姿も見られます。

もちろん自然景観を楽しみに訪れる観光客も多くいます。

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北アルプスの峰に陽が沈み一面茜色に染まり、さらに街の灯がともると山頂は満天の星くずに包まれ、ため息がでるほどの美しい眺めを堪能できるビューポイントになっています。

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4月中旬~5月上旬には山桜、辛夷、山吹が咲き、残雪の山並みが輝いています。

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長峰山の南隣りの光城山(ひかるじょうやま)一帯は、里山再生を目指したハイキングコースや蝶たちが舞い飛ぶ「チョウの森」として地元NPO団体の活動で整備されて来ています。

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また、ハンググライダーやパラグライダーの基地としても利用されています。

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安曇野を訪れた時は、ぜひ長峰山からの眺望を楽しんでみることもお薦めです。

 

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鬼師が遺した飾り瓦 ~ 家紋からたどり着いた瓦鍾馗(須坂市)

須坂市博物館が12年前に、市内に残る蔵の上に乗る屋根瓦を特集した企画展を開いています。そのときに小冊子を作り、須坂での瓦の変遷や職人の仕事について写真入りの解説をしています。

その中に、小屋根の上に乗っている瓦鍾馗の写真がありました。写真で見る限りなかなかいい出来の鍾馗さんです。「これはぜひ見てみなければ」と探訪に出かけました。

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冊子の写真は家紋を雲水が囲み、その上に瓦鍾馗が乗っていて「新田町 K家」とあります。これだけ手掛かりがあれば、すぐに逢えるだろうと思ったのですが、そうはいきませんでした。

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集落と近隣にK姓の宅は7軒ほどあり、くまなく探したのですが見当たりません。新築、改築したようなK家もありません。

となると、何らかの事情で屋根から降ろしてしまったかと探索を断念するしかありません。

外に出ていたご夫婦がいましたので、冊子を示して見たことがないかどうか尋ねました。そうすると「Kさんち(家)はこの家紋じゃない。これはAさんちじゃないか」といいます。

ということで、最後にAさん宅を訪ねると、広い玄関の隅に鍾馗さんがあるではありませんか。あの冊子に載っていた鍾馗さんです。やっと探し当てられたときの喜びは格別です。

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Aさん宅では近年家を新築し、「いったん降ろした際に重かったもので傷めてしまい、再び上げることができなくなったため玄関に置いている」とのことです。

それにしても立派な鍾馗さんです。よく見ると、台座の部分に瓦屋の屋号であるヤマ印に一の文字があります。

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須坂の蔵には飾り瓦もいろいろとあるのですが、大黒、恵比寿が多く鍾馗はなかなか見かけることはありません。

上も下も同市内で目にした鍾馗ですが、最近上げられた型抜き製造されたものです。

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冊子の誤記で回り道をしたとはいえ、家紋が縁で数少ない須坂の鍾馗と巡り合え、すぐ目の前で見ることができたことは収穫でした。屋根から降ろした鍾馗さんが、これからも玄関で悪霊払いしてくれることでしょう。

 

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漆喰細工を尋ねる旅-2   沓亀が描いた三味線店の猫の看板(東京・四谷) 

東京・四谷3丁目の甲州街道沿いに「ねこや楽器店」があります。楽器店の名がありますが、三味線の専門店です。

大正13(1924)年の『最近東京市商工名鑑』に「四谷区伝馬町三丁目二十三番地 三味線販売 ねこや 熊沢富十郎」の記載がありますので、この年の創業になるようです。現当主は3代目になるといいます。

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元和2(1616)年、江戸幕府は甲州街道を通って江戸市中に出入りする通行人や荷物を検める関所を四谷に設けます。今の四谷4丁目交差点辺りになります。

四谷大木戸といい、石畳を敷き木戸は石垣にして夜は木戸を閉めていたといいます。ですから甲州街道は「四谷大木戸までが江戸のうち」だったようです。ねこやさんは、江戸のうちで商売を始めたことになります。

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享保期には人口がすでに100万人を超えた「江戸のうち」は繁栄し、巨大都市へと発展を遂げていきます。人が増えると、歓楽街つまり花街も形成されていきました

この一帯に明治期から花柳界があり、ねこやさんのすぐ近くに荒木町があり少し離れたところに神楽坂などもあります。

最盛期は200人もの芸者さんがいたそうで、その芸者さんにとって三味線は必需品でした。

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ねこや」の命名は初代で、この猫の鏝絵も「看板替わりに作らせたものではないでしょうか」(現当主)といいます。当時は三味線作りに猫は切っても切れない関係ですから、屋号も看板もネコにしたようです。

やや物憂げな表情のブチ猫ですが、そこに実際にうずくまっているような立体感です。

制作したのは、「伊豆の長八」こと入江長八の高弟で、四谷見附の左官・吉田亀五郎です。額装の右下に落款が押捺されています。

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吉田亀五郎は、弘化元(1844)年に四谷見附で生まれています。父親は代々続いた地付きの左官で沓屋の辰五郎といい、五郎は通称「四谷の沓亀(くつかめ)」と呼ばれました。

11歳で母を失った沓亀は奉公に出て左官の技能習得をするかたわら、狩野派の絵師から絵を習得し深川を本拠に活躍していた長八に塑像を学んだといいます。

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左官と漆喰鏝絵の技術を体得した亀五郎は、父の死後二代目辰五郎を継いで独立。四谷で家業を伸ばす一方、鏝絵で料亭や商家、あるいは演芸場などの看板も制作しました。

このねこや楽器店の看板もその中の一枚になります。

 

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