メディカルハーブー46   アルファルファ

アルファルファの和名が示すように、日本には牧草として明治初期に入って来ました。地中深く根を張り、空気中の窒素をとりこんで痩せた土地を肥やす緑肥にも使用されます。

また、すぐれた飼料としても使用され、牛の乳の出をよくするといわれ、カルシウム、カロチンなどが豊富でヨーロッパでは、何世紀にもわたって利用されてきたハーブです。

最初に発見したアラブ人が「植物の父」と呼び、足を速くするため競走馬に与えるなどして重用してきたそうです。

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メディカルハーブ、食用として用いるのは、地上部と発芽種子になります。強壮作用のある葉と発芽した種子(もやし)は新鮮なエンドウ豆の匂いがし、サラダにして食べたり、運動選手用の健康飲料に混ぜたりします。

発芽した種子はビタミンとミネラルが豊富で、病後の回復期の人にとっては、滋養分の多い食欲増進剤となります。また、石けん様の物質であるサポニンがコレステロール値を低減し、Ⅱ型糖尿病の症状を緩和すると考えられています。

弱いエストロゲン作用を持つゲニステインとダイドゼインを含有することから、更年期障害に役立ちます。

 

◆ 和名  ムラサキウマゴヤシ

◆ 学名  Medicago sativa

◆ 主要成分 ビタミンA、B群、E、Kなどのビタミン類、ミネラル類(マグネシウム、銅、鉄、マンガン、カルシウム、カリウム、亜鉛)、 食物繊維、βカロティン、ナイアシン、パントテン酸、ピオチン、イノシトール、コリン、キサントフィル、クマリン、フラボノイド、イソフラボン、ゲニステイン、ダイドゼイン、サポニン

◆ 作用   疲労回復作用、強壮作用、利尿作用、緩下作用、健胃作用、膀胱炎の改善、コレステロールの低減、更年期障害の改善、血糖値の改善

 

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万水川周辺に生息する野鳥と水辺環境の観察会が催されます

春と秋の3回に分けて、安曇野市穂高を流れる万水川( よろずいがわ)の川岸を散策しながら、野鳥や野鳥が生息する水辺の自然について観察してみませんか、という催しが開かれます。

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豊科郷土博物館が開くもので、4回の連続講座ですが1回のみの参加でも受講できます。小学生や親子での参加もできます。

参加する場合、動きやすい服装と飲み物、ほかに観察用の双眼鏡やカメラがあれば用意してほしいと主催者はいっています。

各回とも参加費は70円(保険料)で、定員は20人です。

参加受け付けは4月10日(水)からで、☎ 0263・72・5672(豊科郷土博物館、月曜休み、詳しい問い合わせもこちら)です。

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フィールドワークの日程は、5月11日、10月26日、11月9日でいずれも土曜日で午前9時~11時の予定で、集合場所は万水川三角島周辺などで現地集合・解散になります。

また、明年1月18日(土)午前9時~11時から同博物館内で、野鳥観察のコツや撮影のテクニックを学ぶ講座も開かれます。

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北アルプスの雪解け水が沢をつくり川となって流れ下ってきますが、平野部に出てから砂礫層に吸い込まれるようにして、その姿を消してしまいます。

そして扇状地の先端部あたりで、こんこんと湧水となって再び姿を現します。

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万水川は、湧水の水が再び川を形成してできた新たな川で、上流域と違って満々と水を張りゆっくりと流れているのが特徴です。

この万水川周辺は、多くの野鳥たちが生息する場所になっています。

(*画像はイメージです)

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鬼師が遺した飾り瓦 ~ 旧製糸工場主宅に残る三州鬼師・森田梅吉の吉祥瓦(須坂市)

かつて製糸業で繁栄を極めた須坂。昭和恐慌の荒波にもまれ衰退しましたが、今でも街のあちこちに往時を偲ばせる屋並みや繭蔵が残ります。

神町の神林家は、明治18(1885)年に建築された製糸工場で、広大な敷地内に女工さんたちの寄宿舎まで有していました。

今は工場などの建物はすでになく、経営者が住んでいた母屋が残るだけです。この母屋は典型的な町家造りをそのまま残しています。

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大棟をはじめ屋根の主要なところに飾り瓦が乗っています。いずれも三州からの出稼ぎ鬼師・森田梅吉が制作したものです。

妻飾りが立派で、棟の鬼瓦に鳥衾が付いた縁起ものの鶴と亀が乗せられています。

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その下の妻面に、工場や屋敷を火災から守る願いを込めた見事な遊び龍が飾られています。

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ふくよかで満面に笑みを湛えた大黒天と恵比寿(下)です。実にうまく細工されています。

須坂市立博物館発行の『須坂の甍』によると、鬼瓦、飾り瓦などの「細工もの」を作るに当たって、地場にその技術をもった職人がいなかったため遠く三河から鬼師3人を招き、技を学んだといいます。

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恵比寿の下に竹べらで刻んだ宝の文字が見えますが、こうした意匠も三河鬼師が伝えたものです。

神林家では「明治14(1881)年ころ、豊野(現長野市)の瓦師にわざわざ頼んで造ってもらった」と伝えられていて、鬼師・森田梅吉の作と見られています。

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母屋の軒に載っている留蓋瓦の竹林の虎です。

強い経口感染症でコレラという病気がありますが、日本で初めてコレラが確認されたのが江戸期の文政年間で、65万人が発症し多くの人たちの命を奪ったという記録があります。

相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、その後、コレラは怖い流行り病として恐れられました。

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近在の村々から工女さんとして娘さんを預かり集団生活させていたわけですので、感染症などの流行り病が発生したら大変です。

経営者は鬼師に縁起ものの他に疫病除けのため、強い力で魔物を寄せつけないという虎の装飾瓦を作らせ飾ったりしたのでしょう。

鋭い爪を持ち前足に重心をおいて、悪霊が家に近づけば今にでも襲いかかりそうな威圧感を持った虎を森田梅吉は遺しました。

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三河鬼師の技術は大作に限るものではなく、軒瓦、軒丸瓦などの小品も製作しています。森田作の波兎で、同家に軒瓦として並んでいます。

 

 

 

 

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赤レンガ建造物を尋ねて-8  高い水質で沈殿槽のない城山浄水場(松本市)

松本市の桜の名所の一つに、城山公園があります。その公園入り口手前に松本市城山配水池があります。建造されてから90年近くになる浄水場の遺構です。

松本市は、市内を女鳥羽川、薄川、牛伏川、奈良井川、梓川が流れます。北アルプスや近隣の峰々からの水が扇状地を形成しました。

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昔から豊富で良質な湧水に恵まれ、自然流をそのまま生活用水として利用したり、やや標高の高い地域では地面を掘り水脈を探し当て井戸を造ったり、導水してきた水を集水枡に受けて使う引井(ひきい)などを造って水を確保してきました。

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しかし、産業も隆起し人口も増えこうした方法では水が賄いきれなくなって来ていました。

また、たびたび大火に見舞われ明治45(1872)年にも大火事で被災したことから上水道敷設の必要に迫られます。

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大正6(1917)年に調査を開始し同8年に松本市島内(当時は東筑摩郡島内村)の湧水を利用し、城山に配水池を造ることを決め、工事に取り掛かります。

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配水池は同市城山の中腹斜面を削り取り二つの池を造り、やがて約800mの送水管と本支管約5万5000mに及ぶ配水管の敷設をします。

島内で取水した豊富な伏流水を電動ポンプで配水池へ引き揚げ、貯水池から90mの落差を利用して配水する形を取りました。

 

同12(1923)年から部分給水をはじめ、工事が完工した13年には3500所帯・2万人に給水しました。高い水質のため沈殿槽のない配水池で、全国的に見ても類例がないといいます。

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以来、新施設ができる昭和44(1969)年までの46年間、市民に高い水質の水を供給してきました。

現在、貯水池のほかに、レンガ造で円柱形の着水井点検棟が1、貯水槽点検棟 が2棟残っています。盛り土した貯水池の壁面もレンガを貼り付けています。

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当時としては、最高の建材だったレンガをあえて使用したところに関係者のこの上水道敷設にかけた思い入れが込められているのかも知れません。

 

 

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信州の鏝絵に見る左官職人の技-21   山中にある大海原を前に朝日を拝む虎の絵(長野市)

霊山・戸隠山の麓にある戸隠神社は、奥社・中社・宝光社などの五社からなり、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。

平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆の江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東比叡寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まりました。

山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木が続きます。

寺 社領内の森木をいかに守るかの厳しい掟があったことを示す事件が、安永9(1780)年に起こっています。宝光社近くの住民が薪を雪舟(そり=橇)に積ん で運んでいたのを禁止されている領内の木を伐採したのではないかと見とがめられ、後に宗徒全員が追放という厳罰が下されます。

戸隠では雪舟事件、あるいは雪舟引き事件と呼んでいる歴史に残る悲しい出来事です。

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明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。

宝光社は杉の古木の中、とても長くて急な270段余りの石段を登ったところに神仏習合時代の面影を残す荘厳な社殿があります。社殿は寺院建築の様式を取り入れた権現造りになっています。

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宝光社のすぐ近くの宿坊(旅館)の蔵に、波打ち際の岩礁の上で朝日を遥拝する虎を描いた鏝絵が遺されていました。

今では「百獣の王」というとライオン(獅子)を言いますが、東アジアの各国ではかつては虎を指した時期があったそうです。

四聖獣として西を司り、「龍虎合間見える」というように、龍と共に神獣の地位を占め、その威も絶大な神獣だったといいます。

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ところで、虎は森林や湿原を生息域とする動物です。虎が描かれるのは、竹林を背景にする姿が一般的だと思うのですが、これは大海を眼前にした姿です。珍しい画題になるのではないでしょうか。

そういえば前回の、稲村ケ崎での新田義貞を描いた鏝絵も逆巻く波を前にして、岩場の上に立つ姿を描いていました。

同じ鏝絵師が制作したものですが、戸隠の山中に暮らし海への憧れのようなものを抱いていたのかもしれません。

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かつての宿坊は旅館と名前を変えていますが、宿坊とは戸隠神社に神明奉仕をする神官たちが営む宿で、参拝する戸隠講の講員をもてなしてきました。それぞれが神殿を備えるという神仏混淆の時代からの伝統を引き継いでいます。

こちらも江戸時代から続く宿坊で、江戸時代には玉泉院と呼称していたそうです。
推理小説家の内田康夫の『戸隠伝説殺人事件』で、“信濃のコロンボ”こと竹村警部が事件の謎解きする中に「神社下の楠本」として登場します。

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ダンコウバイが昨年より2週間早く咲きだしました

ここのところ、東京では桜が満開で花見の人々で賑わっている映像が流れていますが、安曇野はようやく梅が咲きだしました。

まだ満開状態ではありませんが、咲きだすと早いですのでじきに咲き誇るのではないでしょうか。

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ハーブスクエアのガーデンでは、ダンコウバイが花開き始めました。ガーデンを彩る春一番の花木です。

今年の冬は、例年と比べ寒く降雪量も多く山間部では今月上旬まではあちこちに残雪もあったのですが、その後、温暖な日が続いたこともあり一気に雪が消え、ここに来て早春の花もちらほら見られるようになりました。

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このダンコウバイ、昨年は4月10日頃に満開となっていますので、かなり早い開花となったことになります。

この後の陽気にもよりますが、桜の開花も早まるかもしれません。

安曇野の花暦でいきますと、桜が咲き誇るのは4月20日前後になります。

 

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ハーブ・モカソフトの営業を再開しました

冬期間、休んでいましたハーブ・モカソフトクリームの営業を、今日23日(土)から再開いたしました。

ハーブ・モカソフトクリームは、ハーブスクエアのオリジナルでノンカフェインですので小さなお子様からお年寄りの方まで幅広く召し上がっていただけます。

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ハーブ・モカソフトは、ダンデリオン、チコリという2種類のハーブの根を小さく刻み、焙煎したものから抽出液をつくります。これと原料用のミルクをフリーザーに入れて巻き上げると、香ばしくさわやかな甘さのモカ色ソフトができ上がりです。

ソフトクリームの価格は、従来どおりとなっています。

ハーブ・モカソフトクリーム      〔コーン〕       350円

どうぞ、おいしいハーブ・モカソフトをお召し上がりください。お待ち申し上げます。

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鬼師が遺した飾り瓦 ~ 須坂市の瓦を発展させた森山家と三州鬼師・神谷喜三郎   

須坂の街は明治期になってから、製糸業で地域経済が潤い活況を呈しました。その後大正期(20世紀初頭)に入って最盛期を迎え、37の大規模工場に6,500人を超える工女が働く一大産業となりました。生糸の町として全国にその名が知れ渡ったといいます。

絹糸の原料となる繭は温度変化や湿気に弱いため、こうした影響を受けにくい土蔵が生産量の増加に合わせ保管・貯蔵のため繭蔵として次々と造られました。

土壁のため火災にも強く、白漆喰となまこ壁の美しさは、やがて財力をもった人たちの蔵としても新築されました。土蔵となると瓦葺きですので、これに伴い屋根瓦の需要が急速に伸びました。

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須坂の瓦業は、穀町の森山喜惣治が文政4(1821)年に瓦屋の創業を須坂藩に願い出た文書が残っていることからこの時が始まりとみられています。

すでに開業していた森山瓦屋に、注文が殺到したことはいうまでもありません。

やがて町家の人々から桟瓦で葺きかえるだけではなく、防火や縁起を担いだ飾り瓦を屋根に乗せる求めが強くなりました。

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このため森山瓦屋では特別な技量をもった鬼師・神谷喜三郎を三河から招いて需要にこたえるとともに制作技術の指導を受けます。

森山銀治郎、関太郎、武蔵と続く家業は、神谷から多くの制作技術を体得して須坂に優れた装飾瓦を遺したといいます。

森山家は現在、家業を親類筋に譲り瓦業を営んでいませんが、三州鬼師・神谷喜三郎が制作した飾り瓦が受け継がれ、備品庫に収納保存されています。現当主の裕士さんにお願いして、装飾瓦の数々を見せていただきました。

この中で、実に珍しい瓦鍾馗と対面しました。なにが珍しいかというと、まず両手でしっかりと刀剣を握っていますが、この刀は金物製で瓦ではありません。

焼き上げた後に何かが当たり刀剣部分が欠損し、金属製の刀などを持たせたものなどを見かけることがありますが、それとは違って制作当初からこの剣を粘土にはめ込んで焼成しています。

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それから、胴上に甲冑を着けています。甲冑姿の鍾馗も多くはありませんが、よく見ると黄色、緑が鎧に、唇の周りに赤銅色の跡が見えます。ということは、彩色されていたことになります。焼成前か後かは分かりませんが、彩色されて屋根に飾られていたことになります。

森山家で拝見した装飾瓦の中に寒山拾得の寒山を模ったものがありました。茶目っ気たっぷりで柔和な表情が印象的です。

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服部さんは「いいですね。特に顔が素晴らしいです。持っている巻物に「山里ハ」と百人一首の歌が書いてあるのもユーモアがあって楽しめますね」と絶賛しています。

神谷が制作した装飾瓦は、他にも鯛を手にした恵比寿や恵比寿面など保存されていますが、床の間に飾ってある「身体を休める和牛」にもお目にかかることができました。

当初から置物として制作したもので、なんとも穏やかな表情を見せながら休んでいます。

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背骨やヒズメ、尾も丁寧な仕上げを施しています。置物として制作することを意識したのでしょうか、装飾文様も刻んでいます。

神谷喜三郎の鬼師としての技の多才ぶりに驚かされます。

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信州の鏝絵に見る左官職人の技-20   戸隠に「剣投ぜし」稲村ケ崎の戦勝祈願の図(長野市)

「戸隠そば」や「戸隠流忍者」などで知られる旧戸隠村は、長野市と合併して現在は長野市戸隠になっていますが、ユニークな戸隠の名前の由来は、神話の時代に遡ります。

古事記では、太陽神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴な行いを悲しみ、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたため世の中は光を失い真っ暗となります。

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作物も育たず、秩序も失われ様々な禍いが発生したため、困った八百万の神々が集まり相談の会議をします。そこで様々な準備をして岩戸を開け、天照大御神を外に出す計画を練り上げました。

いよいよその日、岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)がおどけた踊りを披露し、神々が大笑いします。

大爆笑の声に驚いた天照大御神が岩戸を少し開けた時、大力持ちの天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が天照の腕を取り外へ出し、岩戸を塞いでいた岩を力いっぱい投げ飛ばしたといいます。その岩が遠く戸隠の地まで飛んで来て、険しい戸隠山になったのだそうです。

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古くから霊山・戸隠山は山岳密教の聖地として栄え、明治以前の神仏混淆時代には戸隠神社は戸隠山顕光寺と呼ばれ宿坊を兼ねた神社でした。周辺には「戸隠三千坊」といわれるほど修験道場、宿坊があったと伝わります。

現在は40軒余りの宿坊、旅館が建ち並びます。その一軒の土蔵に横80cm、縦50cmほどの扇形の台座に描かれた鏝絵があります。

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描かれているのは、鎌倉末期の武将・新田義貞が稲村ケ崎で戦勝を祈願して黄金の太刀を海に投じて竜神に捧げたという『太平記』に出て来る場面です。

文部省唱歌に『鎌倉』という唱歌があります。鎌倉市内の名勝地をうたったものですが、その1番の歌詞に……

七里ヶ浜(しちりがはま)の磯づたい
稲村ヶ崎(いなむらがさき)名将の
剣(つるぎ)投ぜし古戦場

というのがあります。

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この中の「名将」とは新田義貞のことで、鎌倉幕府に反逆し上野国新田荘(今の群馬県太田市)で挙兵します。

挙兵したときは小さかった軍勢の規模を進軍しながら膨らませ、小手指原(埼玉県所沢市)、分倍河原(東京都府中市)などで幕府軍に勝ち、鎌倉へ攻め上がります。

後退を余儀なくされた幕府軍は鎌倉に籠もり、7カ所の切通しを固めたため新田軍は攻めあぐみます。

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ここで義貞は、鎌倉の由比ヶ浜と七里ガ浜の間にある岬・稲村ケ崎から攻め入ることにし、鏝絵にあるように進路を切り開くため、龍神に祈願し太刀を海に投じ願掛けをします。

そうすると潮が引くという奇蹟が起こり、大軍が干潟を通って鎌倉に入る道が開け、最後の東勝寺の合戦に勝ち挙兵から2週間で討幕を果たします。元弘3(1333)年のことです。

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漆喰細工で描かれている絵は、竜神が棲むという大海を波荒く浮き立たせ海鳥と旗指し物も入れて描き、ともすると単調になりがちな場面に動きを入れています。

この鏝絵がある旅館は、江戸末期に宝光社近くの現在地に宿坊として創業したといいますから、150年の歴史があります。明治中期にはこの土蔵が建てられているので100年を有に超えています。

母屋と土蔵はその後何度か、補修・改修しているものの鏝絵は当時のままで手を入れていないということですから、100年の歳月を経てもなお色褪せていないということになります。

 

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赤レンガ建造物を尋ねて-7   味噌・醤油醸造所の煙突(松本市)

信州では戦国時代の武将・武田信玄が農家に奨励したことで味噌づくりが盛んになったと言われ、現在でも 全国の生産量の3分の1強を占めています。

安曇野から松本にかけての一帯も、昔から味噌や酒づくりが盛んでした。古い酒蔵や味噌醸造所などには高くそびえる煙突がつきものですが、赤レンガ煙突が松本市里山辺にあります。

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店の奥さんの話では、江戸時代は名主を務めた家柄だったそうで、味噌醸造を始めたのは明治期になってからで現在で3代目になるといいます。

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煙突の高さは測ったことがないので分からないといいますが、目測で13mほどでしょうか。初代の頃から赤レンガ造りの煙突があり、初めはもっと高かったそうです。

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しかし、2代目になったときに「鉄骨が入っていなかったため台風が来て崩れ、急ぎ復旧したのでかなり低くなった」といいます。「室戸台風(昭和9年=1934年)では大丈夫だったのですが、その後の台風でやられた」とも。

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ところで、現代は味噌や酒の醸造所を見ても高い煙突がありません。米、大豆などの原料を蒸したり、もろみを蒸留させたり、殺菌などに使う燃料はガスなどを使うことが多く無煙のため、煙突は不要になりました。

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昔はボイラーの燃料として石炭を使用していて、大量の煙を逃がす為に高い煙突が必要だったわけです。こちらでは、灯油を燃料として使っているので今でも赤レンガ煙突は現役で働いているということです。

昔も今も、高い煙突は醸造業のシンボルであると同時に広告塔の意味もあります。

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不必要になったから解体すると言っても費用もかさむわけですから、老朽化が進んで危険でない限り、できればこうして残してもらいたいものです。

 

 

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