安曇野は道祖神が多いことで知られ、その数500体を超えるといわれます。
言うまでもなく道祖神は石像ですが、中には絵具で鮮やかに彩色されたものを目にすることができます。安曇野一帯で、なかでも穂高地区に集中しています。
これは、道祖神が建っている地域の子どもたちが集まり色を塗ったものです。多くの地域で2月上旬の週末に執り行われているようです。
安曇野穂高の田中地区でも、先だって小学生までの子どもたちが集まり彩色する「道祖神祭り」と呼ぶ伝統行事がありました。
昨年放映されたNHKの連続テレビ小説「おひさま」でも、東京から安曇野に引っ越してきた主人公の陽子が、道祖神祭りに参加して村の子どもたちとうち融けていくシーンがあり、覚えている方たちもおられると思います。
昭和8(1933)年頃の時代設定でしたね。
田中の道祖神祭りでは、手作りした紙花をマサキの枝に飾りつけ大太鼓を鳴らしながら集落の全戸に配って回り、道祖神にも飾り絵具で彩色しました。
これが今年彩色された道祖神です。細部は上学年の子どもが担当し、みんなできれいに塗り上げます。
像の裏に刻まれている文字にも色付けします。
「文政七年」(1824年)で188年前に作られた道祖神です。ちなみに文政年間は、浮世絵師の葛飾北斎や南町奉行・遠山金四郎が活躍していた年代になるそうです。
絵具やポスターカラーを使っての彩色で、雨や雪で一年経つと色褪せますので、毎年彩色します。
こちらは、本郷の道祖神です。彩色が新しいので、ここも最近色付けされたのでしょうか。天保4(1833)年の作で、鳥居の下で男神と女神が手を握り合っています。
隣りに建っている二十三夜塔も塗られ、熊手の飾りものが添えられています。
ここも最近、道祖神祭りを行ったのでしょうか。飾りつけがそのまま残っています。
穂高矢原にある道祖神です。こうして道祖神に彩色する行事は、この時期が多いようです。
それは「事八日(ことようか)」に関係するのではないかという説があります。
神無月(旧暦10月)になると、全国から八百万(やおよろず)の神々が出雲大社に大集合します。その村に居着いた疫病神も疫病事を詳しく記した巻物を道祖神に預け出雲へ出かけますが、事八日(2月8日)になるとお勤めを終えて戻ってきます。
しかし、道祖神は疫病神から預かった巻物を返さず「小正月の日に三九郎(どんど焼き)の火で燃やされてしまった」と方便し、村人を疫病から守ったことに因むというのです。
事八日の伝統行事が松本市の里山辺、入山辺地区に残り国の選択無形民俗文化財に指定されています。
2月8日の事初始めに藁で馬、龍、ムカデなどを編み、疫病神、風邪の神、貧乏神に見立てて集落の外れに送りだし、その年の無病息災を祈る行事が現在も続いています。
彩色は道祖神だけではなく、いろいろな石像に施されます。
田中の別のところにある青面(しょうめん)金剛像も…
上原の青面金剛も彩られています。
こちらは、道祖神とともに彩色された大黒天や恵比寿で、本郷にあります。
矢原の祠に祀られている大黒天、毘沙門天、弁財天が刻まれている珍しい石像です。
この石像や下の青面金剛像は、色使いも豊富で細かく色分けされています。研究家によると、これらは彩色する材料が入手できなかった頃、穂高人形師のような専門家が顔料で彩色したものだといいます。
江戸時代の中期にあたる「享保十六年」(1731年) の制作銘のある青面金剛像が等々力地区にあります。
この年の冷夏よってイナゴやウンカなどの稲にとっての害虫が大発生、壊滅的な被害に見舞われた「享保の大飢饉」の年です。西日本を中心に250万人強が飢餓に苦しみ、1万2千人の餓死者がでたということです。
ところで、道祖神などの石像の裏手に「帯代十五両」などと刻まれていることがあります。
疫病の流行もなく、農作物の実りもよい村から道祖神を「道祖神の嫁入り」と称して盗むという風習が、その昔あったそうです。繁栄する集落にあやかりたいということなのでしょう。
盗まれる側では、石に帯代=結納金として十五両置いていけと予め掘ったそうです。なんとも、嫁入りにしても帯代にしてもユーモアのある話ではありませんか。
上は本郷の恵比寿、大黒天の帯代で、下は上原の道祖神に刻まれています。
盗まれることを嫌った集落では持ち運びできないほどの大きく重い道祖神を作ったり、屋根と柵付きの祠(ほこら)に祀ったりしたそうです。