連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(20)~戦没者と復員兵

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


昭和2(1927)年に明治以来の徴兵令を全面的に改め、「兵役法」が公布、施行されました。これによって、帝国臣民(日本国民)の全ての男子に兵役の義務を課すことになりました。

満20歳になると兵役に就くための徴兵検査(徴集)を受け、検査の結果5種類に振り分けられました。〔甲〕は兵士として適任、〔乙〕〔丙〕は甲に準じ、〔丁〕は不合格、〔戊〕が判断保留の区分でした。合格すると戦時に召集されました。

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陽子の夫・丸山和成に召集令状が届いたシーンがありました。配属先は陸軍歩兵松本50連隊でした。臨時召集令状は、薄い赤い紙であったことから、俗に「赤紙」といわれました。

また「一銭五厘」ともいわれました。戦中の葉書の郵便料金が一銭五厘でしたが、出征して生死を懸けて戦場に向かう兵隊の人生が葉書1枚ほどの僅かな金額でしかないという意味が込められていました。

しかし、召集令状は葉書ではなく、役所から手渡しで通知されました。

村から、町から兵士が出征する時は、村を挙げて壮行したといいます。

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当時、尋常小学校の生徒だった豊科の方が、後年、出征のときの模様を「兵隊送り」として綴っています。

「村から出征兵士が立つ時は、小学生も駅に見送りに行くことになっていました。(中略)  これを行って帰ってくれば、(中略) 午前中の授業は済んでいました。お国のために戦いにゆく人といっても、大ていは見知らぬ大人が兵隊になって行くのですから、私たち子供は、ただ、機械的に万歳を三唱して帰ってくるのです。これをいやな事だといえば『敵に味方するのか』と非難されました。」

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召集令状には、召集されるものの名前、配属される部隊名、部隊に出頭する日時が書かれていて、厳格にこれを守らなければなりませんでした。

召集出頭者が揃うと、やがて部隊ごとに戦線へ向かいますがどこへ行くかは兵士には全く知らされませんでした。

下の写真は、松本50連隊の部隊が軍用列車に乗って戦場へ向かうため、街中を通って駅へ行進する模様です。

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終戦から66年経った現在、松本50連隊の兵営跡として唯一残る赤レンガ棟があります。松本市の信州大学の構内にあり、現在は医学部の備品庫として使用されています。当時は、軍馬に与える秣(まぐさ)を保存する舎に使っていたいうことです。

秣を保存するのに似つかわしくないほど立派な赤レンガ棟と思われますが、当時馬は軍にとっては貴重なものでした。

軍馬は階級の高い軍人が乗る乗馬、車両やソリを引く輓馬(ばんば)、荷を運ぶ駄馬(だば)に分けられ、馬主は常に目的に合わせた調教・訓練を怠らず軍からの徴発を受けた場合、いつでも応えられる義務を負いました。昭和14(1939)年には、そのための法令(軍馬資源保護法)も制定されています。

また、それ以前に北海道で軍馬に適した品種改良を繰り返し、釧路種が生みだされた経緯もあるほどです。

軍馬は大切にされ、「前線では人(兵士)よりも馬のほうが大事にされた」という兵士の証言もあるほどです。馬の飼葉庫としての赤レンガ棟もうなづけるところではないでしょうか。

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昭和6(1931)年の満州事変以来、中国大陸への本格的な出兵を皮切りに国民にとって長く戦争が続いていました。

なかでも日本の真珠湾急襲によって始まった太平洋戦争は、日を追うごとに戦局は悪化し各戦線で敗退、昭和19年になると日本本土が米軍からの激しい爆撃を受けるほどに戦況は追いつめられていました。

そのために戦没者や民間の犠牲者も多くでました。

戦闘で死者が出た場合、初期のころは手厚く葬られ遺骨とともに、部隊が帰還した時に英霊として行進し市民も頭を下げて迎え入れたようです。同じ松本50連隊の兵営へ向かう時の写真です。

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村葬として村人たちが総出で弔ったところもあったようです。

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陽子が勤務していた国民学校から、代用教員で軍事教練を担当していた中村先生が出征しましたが、戦地から生還しませんでした。

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陽子の兄で、須藤家の長男・春樹が軍医として乗っていた潜水艦が撃沈され戦没したと知らされたのは、次兄・茂樹が得た情報を書き記した一銭五厘の葉書によってでした。

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戦死した場合の知らせは、通常「戦死公報」と呼ばれた役所からの通知によってもたらされました。

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戦死公報は知事名で、戦死者の本籍、所属、階級、戦死地、日時などが記されていたといいます。

開戦初期から半ばころまでは、正確に記されていたようですが、戦局が悪化するにつれ遅くなっていきました。

南方戦線など最前線との連絡も途絶え、玉砕などで戦死者が急増しました。さらに戦災で戸籍簿が焼失するなどしたことなどが重なり、終戦を迎えても安否の確認ができないまま待たされる家族も少なくなかったようです。

和成の幼友達で、兄的な存在だった宮下建造の戦死公報が復員を待ちわびる妻・啓子のもとに届けられたのも、終戦から半年ほど経ってからでした。

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この戦争による戦死者は、遺族にとって一家の大黒柱であったり有力な働き手であっただけに、残されたものとしては戦後も精神的、生活上も苦しい負担となって生きていかなければなりませんでした。

安曇野の各所に、戦没した出征兵士の慰霊碑を見ることができます。遺族の方たちが悲しくも、その働きを末永く顕彰しようと故郷の地に建立したものです。

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海軍航空隊員で上等飛行兵曹だった次兄の茂樹は帰還しましたが、多くの戦友が亡くなり、自分が生存したという事実を悔いて…     

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しばらくは苦しみ抜いた生活を送っていました。

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やはり復員した中に、タケオがいました。

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郷里に復員すると陽子のいる学校へ向かい求婚しましたが、陽子はすでに既婚者でしたね。      

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タケオたち復員者は背嚢(はいのう=リュックサック)を背に帰郷しましたが、その中身は軍から支給された毛布、飯ごう、水筒などだったといいます。

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そして待ちわびた夫・和成の復員。陽子は突然のことに腰を抜かしてしまいましたが…。久々の家族そろっての食事。食糧難で食事内容は貧しくても、家族団らんの時間が蘇ってきていました。

和成は復員して実家の前に立った時、「これからは(滅私報国というお国のためでなく)家族のために生きよう」と心に決めたということでした。     

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下の写真は、安曇野で撮られたものではありませんが、復員兵を迎える村の人たちの同じような姿が日本の各地で見られたに違いありません。

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* 白黒写真は「写真記録 信州の昭和」(信濃毎日新聞社)などから撮ったものです。

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