鬼師が遺した飾り瓦 ~ 上田市の北国街道沿いにある瓦鍾馗(上田市、青木村)

六文銭の旗紋で知られる真田昌幸(幸村の父)は、上田城を築き、約15年後の慶長3(1598)年、その城下に北国街道が通りました。

 

 
しかし、2年後の慶長5年に豊臣側と徳川側に諸国を二分する天下分け目の関ケ原の戦いが起こり、真田家は西軍・豊臣側に付きます。真田軍は昌幸と幸村の采配で、東軍・徳川側の援護のため中山道経由で関ヶ原へ向かう家康の息子・徳川秀忠の大軍を領内で長時間引き留めます。

 

 
このため、秀忠は関ケ原の戦いに間に合わないという結果を生みます。真田家は関ケ原の戦いに勝利した徳川家の怒りを買い、その後、上田城は徹底的に破壊されます。

 

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現在残っている上田城祉は、後年になって上田を治めた千石氏によって築かれたものです。

上田市を通る北国街道は、百万石の有力大名・加賀藩の参勤交代や佐渡金山から採掘した金を運ぶ要路として、五街道に次ぐ重要な街道とされていました。善光寺参りに向かう庶民も頻繁に往来しました。

こうしたことから上田は城下町というより、北国街道の宿場町としての装いを濃くしていきました。

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北国街道の上田宿は柳町にありました。旅籠や商家が軒を並べるようにできた宿で、現在も200mほどの直線に伸びた街区に、往時の姿を偲ばせるように軒の高さが同じ家並が整然と並んでいます。

最盛期は、呉服屋が25軒もあって賑わったそうです。街筋に柳の木が多かったことから柳町の名がついたといいます。

その宿の外れの出入り口になる家の大棟に鍾馗の飾り瓦が上がっていました。

この鍾馗さん、よく見るとつきものの剣を持っていません。手首の状態から剣が欠落したようにも見えません。そして、何かに腰を落としているポーズにも見えます。

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上田市下塩尻は、かつて製糸工場や養蚕農家が林立し、蚕都・上田の名を全国に知らしめた地区です。

旧北国街道が国道18号と並んで通っていて、少し中に入ると瓦葺きの大きな屋敷も残っています。

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6年前に、愛知県在住の瓦鍾馗研究家の小沢正樹さんが瓦鍾馗の探索に上田市と隣りの青木村を訪れています。小沢さんから位置情報をいただき、見て回りました。

1体は西塩尻駅の近くにあり(上の画像)、そしてもう1体は小沢さんが周辺を探索して発見した鍾馗さんです。その鍾馗さんが下の画像です。

こちらの主人の話では、ここの家の前の通りが旧北国街道で、宅の中庭に昔の番所があったといいます。

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近隣では通称「番所のうち(家)」と呼んでいたということです。

瓦鍾馗については書き記されたものがなく、いつころに屋根に上がったものかは分からないのですが、「親から、自分が生まれた昭和2(1927)年には上がっていたという話を聞いています」といっていました。

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次に向かったのが青木村です。小沢さんが訪れて以来、その後の消息が分からなくなっていたのですが、しっかり小屋根の上で厄神払をしていました。

この鍾馗さんは、大正14(1925)年にこちらの屋敷を描いた水彩画のなかに小屋根の同じ位置に描写されていることから、このときにはすでに上がっていたことになります。少なくも90年を超えてこちらの家を見守り続けてきたわけです。

 

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