顔の欠けた道祖神~堀金・岩原

むかし、岩原に働き者の与兵衛と怠け者の五郎太という男が住んでいました。ふたりの畑は隣り合わせで、間に道祖神が建っていました。男神と女神が仲よさそうに手をつないでいる道祖神でした。

畑が隣りどうしだったことから、村人たちは二人の畑を見比べながら「与兵衛さのとこの物は畑いっぱいに実って、みな青々しているに、怠け者の五郎太んとこのは、ひょろひょろして色も悪いし、枯れそうじゃねえか」と噂していました。悪い噂は五郎太の耳にも届き、与兵衛のことをおもしろく思っていませんでした。

           2_3                        (与兵衛の畑も、このように手入れされていたのでしょうか)

そろそろ秋の道祖神祭りが近づいて来たときのことです。与兵衛はお供えする枝豆を収穫しようと準備をしていました。そこへ五郎太が息をこらしてやって来ました。「今、道祖神さまの汚れを落としていたら、神様がおらに『収穫は祭りの翌日にするように』とお告げになっただ。だで急いでおめえに知らせに来ただ」と、うそをいいました。与兵衛は「お告げなら‥」と思い、収穫を一日延ばすことにしました。

にぎやかな祭りが終わり、次の日、さっそく作物を穫り入れようと畑に行くと、あるはずの枝豆や野菜が何もありません。与兵衛は信じられませんでした。そして道祖神のところへ走っていき泣き叫びました。「おらはぜいたくもせず、地道に働いて来ただ。神様が延ばせというから延ばしたのに、なんでこんな目にあうだ。ひどいじゃねえか」

気持ちがおさまらない与兵衛は、近くにあった石をとっさにつかんで、道祖神の顔を殴ってしまいました。次の瞬間、道祖神の男神と女神の顔が欠けてしまいました。我にかえった与兵衛は、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づきました。そしてそのまま、家にこもってしまいました。

                              113( 顔の欠けた双体道祖神は現在、堀金歴史民俗資料館前に保存されています。裏面に文政九戌年=1826年の碑銘が記されています)

与兵衛の畑は、怠け者の五郎太の畑の方がまともに見えるほどに、見る見る間に荒れすさんでしまいました。与兵衛をだました五郎太は「おらの畑の方が、与兵衛のとこよりいっぱい収穫できるわい」と、喜んでいました。そして、意気込んで畑に出かけました。

「エー、これは、どうしたというだ」 昨日までなんともなかった作物が全部枯れているではありませんか。五郎太は、その場に呆然と立ちすくんでしまいました。

しばらくして、五郎太がふと見ると の欠けた道祖神が目に止まりました。「おらが道祖神さまの名を語って、与兵衛をだましたからかや? 畑の物が枯れちまったり、道祖神さまの顔も欠けてしまったり‥‥。なんかとんでもねえことが起こるかもしれねえ」とつぶやき、与兵衛の家へ行きました。

「与兵衛さ、申し訳ねえ。おめえのとこの野菜を盗んだのは‥‥このおらだ。道祖神さまのお告げだとだまして、すまねえことしただ」と謝りました。すると与兵衛は「おらの方がえれえことしちまっただ。道祖神さまにだまされたかと思って、神様の顔を石でなぐって鼻を欠いてしまっただ」といいました。

それから二人は相談し、新しい道祖神を二人で建てることにしました。石工に頼んで彫ってもらい、顔の欠けた道祖神を丁寧に埋めました。二人はその後、争うこともなく、五郎太も人が変ったようにまじめに働くようになりました。村の人たちは、この様子を見ながら新しい道祖神を近所の仲たがいをまとめる役として、大切にお祀りしたということです。

           001(現在建っている道祖神は、顔欠き道祖神の後の文久二年=1862年に建てられたもので、一回り大きくなっています)

土に埋められた道祖神は、ずうっと後になって道路を拡幅するときに村人によって発見され、掘り起こされて顔が欠けたままの姿で祀られています。

 

         * 『あづみ野 堀金の民話』 (あづみ野児童文学会編)を参照しました。

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