瓦鍾馗研究家の小沢正樹さんから位置情報をいただき、青木村へ向かいました。鍾馗さんを探して旅している小沢さんは6年前にすでにこの地を訪れています。
位置情報が正確でしたので、探索に時間を要しませんでした。
現地に着くと鍾馗さんと並ぶように白漆喰の蔵の妻に鏝絵があるではありませんか。夢中になって写していると、長屋門からご主人が顔をだしました。
挨拶もそこそこに、なにを描いた鏝絵かを尋ねると、酒を好物とする中国の伝説上の動物で猩々(しょうじよう)だといいます。
そして、今は酒店をやっているが元は造り酒屋で、鏝絵も酒に因んで猩々を描いたのだといいます。詳しくはおばあちゃんが知っているということで紹介してくれました。
酒店の店番をしているおばあちゃんはかくしゃくとしていて、とても96歳には見えません。 客さばきも手際が良く、話もおもしろく記憶力も確かです。
そのおばあちゃんの話では、江戸末期から代々、造り酒屋だったそうです。しかし、太平洋戦争が始まってまもなくの昭和17(1942)年、原料の米を軍へ供出しなければならなくなり、村役場を通して造り酒屋廃業を促すお達しがあったそうです。
村には数軒、小さな酒蔵があったそうですが、こちらは初代村長の家柄、お上(大本営)に逆らえず止むなく廃業勧告に従わざるをえなかったということです。
そして、「まもなく松根油の製造をさせられたんですよ。松根油って分かります?」
戦後生まれの浅学の身にとっては、名前は聞いたことがありますが、詳しくは分かりません。以下は帰ってから調べた松根油についての経緯です。
戦争が進むと資源を持たない日本は、日に日に苦境に追い込まれますが、軍機用の燃料(ガソリン)も決定的に不足しました。そこで大本営は代替燃料
として、松根油(しょうこんゆ)という松の根株や枝を乾留して得られる油を自給自足してまかなおうと真剣に考えたようです。
町村役場を通して全国の山間地に住む人々を総動員し、松の伐根にあたらせたといいます。伐根は大変な労力を要します。今のように重機もなく限られた数のツルハシ、スコップなどでの手作業です。
さらに若い力は軍に徴兵されていましたので、徴用されなかった中高年の男や子どもたちが掘り起こし、女性たちが荷車に載せて引いたそうです。
「200本の松で飛行機が1時間飛べる」「掘って蒸して送れ」「全村あげて松根 赤だすき」などの戦時標語も、この頃の山間地には氾濫していたといいます。
それでは、その松根を運んだ先はどこかというと、どうも潰した造り酒屋だったようなのです。蒸留設備、大樽、桶など都合のいいモノが備わっていたからです。
松根油について書かれた記録やサイトもありますが、どこで精製を試みていたのかというのがこれまで分かりませんでした。
このおばあちゃんの家の酒樽などは粗油で黒くなって使いものにならなくなり「戦争が終わったら造り酒屋を再興しよう」と密かな願いも叶わなかったのではないでしょうか。松根油も実用にいたらぬうちに終戦を迎えたといいます。
店の奥に大正4(1915)年に描かれた絵が額装されて飾られています。そのなかに、鍾馗さんも猩々もいるのが確認できます。
ですから、少なくもこのころにはすでにこちらの蔵にあったものということになります。
こうした村の辛い歴史と人々の思いを、猩々の鏝絵は見つめてきたのです。
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松根油については「松根油を訪ねて」 、「松根油は語る」 などが参考になります。