長野の善光寺は古くから人々の信仰を集め、多くの参詣客が足を運びました。各地から善光寺に通じる街道は、庶民の間では「善光寺街道」と呼ばれていました。
中山道洗馬宿(せばじゅく=塩尻市)の追分から北上し、城下町松本を通って険しい山間部を抜け、長野に至る善光寺西街道は正式には北国西街道(往還)といいます。
昔から魔除けとして屋根に飾られてきた鍾馗さん。
特に奈良や京都など関西には広く分布していますが、ヒト、モノ、カネが行き交う街道筋には、こうした生活文化の情報も当然もたらされたはずです。
となると、西国の旅人から鍾馗さんを飾る風習について信州人の耳に入り、宿場などの屋根に飾られているかもしれないと思い立って北国(善光寺西)街道に沿って、瓦鍾馗の探索に向かいました。
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安曇野の東側を南北に走って長野の善光寺へ向かう街道筋を、刈谷原、会田、乱橋、青柳、麻績、稲荷山までの旧宿場を巡りました。
最初に訪れた刈谷原宿(松本市)では、鍾馗さんに巡り会えませんでしたが、立派な門構えのある宅の大棟に対で鬼瓦が飾られていました。
その鬼瓦の下の妻面に鏝絵があります。残念ながら隣りの棟に隠れてしまい、何を描いたものかは分かりません。
刈谷原宿から会田宿(松本市四賀)へ向かう途中、道を外れて松本街道の保福寺宿を流してみると…。
曹同宗末寺の保福寺本堂の上に狛犬と蓮の飾り瓦が据えられています。
近くの民家にも実に豪華な文字瓦が複数体掲げられています。刻んでいる文字も麒麟(きりん)であったり神であったり、別の棟には根という文字もありました。
さらに四賀の中川地区に立ち寄ると…
実にひなびた田舎にあるといった風情で鍾馗さんが屋根に乗っていました。
荒作りですが、なかなかいい味を出しているではありませんか。
会田宿の交差点の坂道を登ると、古い木造校舎が保存されています。旧会田中学校で、開校していた50年の間に、この校舎で6千2百人が学んだそうです。
道を挟んだ向かい側に会田小学校があります。その一部にやはり古い木造校舎があります。
この校舎は現在も使用されているようです。その入り口の鬼瓦に…
「學」の文字です。この鬼瓦で学びの精神注入といったところでしょうか。
戻って会田の宿跡へ。
街道の中でも大きな宿があった会田宿は、往時を偲ばせる道標も残っています。長い年月の間に、「善光寺道」の善の部分が無くなっています。
宿場跡には、今も白漆喰となまこ壁の旅籠の匂いがする建て物も点在します。そして旅籠だったことを偲ばせる屋号の看板も、多くの家で掲げています。
復元された井戸でしょうが、釣瓶(つるべ)まで付いています。
この井戸のある周辺を探索すると…鍾馗さんがいました。
憤怒の形相とでもいうのでしょうか。口を真一文字に結び、眼光鋭く一点を見つめています。目の先には、厄神でもいるのでしょうか。
横向きに設置されていて顔を正面からのぞくことができませんが、重量感、威圧感がありますね。
作られてから相当な年月を経ているのでしょうか、顔から上半身にかけて摩耗しています。
全国からの善男善女が詣でた善光寺参りは江戸期に盛んで、その道すがら旅籠に泊まったわけですから、その頃のものかも(?)しれません。
こちらの鍾馗さんも古さでは負けていない風格が滲んでいます。
宿主が泊まった客の、道中の無病息災を願って鍾馗さんを飾ったのでしょう、きっと。
この鍾馗さん、サーフボードにでも乗っているように見えませんか。両手でうまく波に乗るためバランスを取っているような…。
顔の表情もやや強ばっているように見えます。名付けて「サーファー鍾馗」としておきましょうか。
旧宿場に鍾馗さんがいるかもしれないという仮説、さっそく“あたり”がありました。会田宿では、このほかにも2体の瓦鍾馗を見つけることができました。
宿場の外れに今も二基の常夜燈が残ります。安政2(1855)年に寄進されたものです。この先は、街道のなかでも難所の一つとされた立峠へと向かいます。
しかし、峠道は車は走れませんので、大回りして乱橋へと向かいます。