安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。
* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。
昭和19(1944)年半ばになると、ますます戦局は悪化しアメリカ軍のB-29による本土爆撃がいよいよ激しくなりました。連日のようにどこかの都市が空襲を受けました。
この年の6月、政府は帝都(東京)防衛や食糧事情の改善、あるいは児童の保護などの事情から、学童疎開を進める方針をだしました。まず地方に縁故先のあるものはそこへ、縁故先のないものには安全な地方へ集団疎開させました。
ドラマでは、小さな妹と二人で安曇野に縁故疎開してきた倉田杏子(左のセーラー服姿)が登場していました。陽子は、杏子の担任として受け持つようになりました。
親元を離れての生活はそれだけでも心細く寂しいものですが、見知らぬ土地での方言に戸惑ったり、すぐには友だちもできず子ども心にも不安は多かったようです。杏子も初めのうちはそうでしたね。
ドラマには出てきませんでしたが、昭和20(1945)年になって本格的な集団疎開が始まりました。安曇野にも都会の集団疎開する子どもたちが、数人の教師に引率され次々とやってきました。
穂高でみると、穂高国民学校では東京・太子堂国民学校(世田谷区)の学童54人、同・千寿第三国民学校(足立区)の51人を受け入れています。有明国民学校には太子堂国民学校の児童139人、西穂高国民学校には127人が、そして北穂高国民学校に千寿第三国民学校から49人が疎開転入しました。
同年の6月11、12日に到着、安曇野市穂高の青原寺や満願寺の本堂で合宿生活に入りました。
学童たちの作文によると、朝は本堂にある太鼓のドンドンという大きな音で起床、日直の号令でふとんを片付け、洗面、掃除、点呼、体操、朝食を取ったあとに登校したということです。
学校から帰るとサツマイモをおやつに食べ、宿題や勉強をした後に夕食をし、8時の消灯までの間が遊べる時間だったといいます。風呂は1日おきに入ったそうです。
学校での教育内容は戦士を作るという目的に合わせた鍛錬主義で、高学年になると柔・剣道、銃剣術、長刀などが採りいれられ、軍事教練も行われました。
しかし、食糧事情は極めて良くなく、空腹感にさいなまされました。子どもたちは食糧増産のため農家の手伝いをしたり、川原を開墾し、さつまいもなどを作ったりもしました。
そのほか、薬草を採取したり、繊維の替わりになるアカソを集めたり、神社へ戦勝祈念に行ったりしましたが、シラミ、ノミ、カなどにも悩まされた集団生活だったといいます。
児童たちは、終戦を安曇野で知り、敗戦の夏を寺で過ごしました。しかし、すぐには帰京できませんでした。東京は下町を中心に、大空襲で焼け野原同然になっているのに加え、深刻な食糧難に陥っていたからです。
ようやく寒くなり始めた11月7日になって、安曇野を離れ親元へ帰りました。有明国民学校では、5日に送別会を行い、芋、干し芋、柿、栗のほか米三斗を贈ったということです。
疎開児童たちが学んだ有明国民学校は、戦後の学制改革に伴い有明小学校と改称しました。その後、校舎の老朽化が目立ってきたことなどから当時4校あった小学校を2校に統合し、新設校(現穂高北小学校)を造ることになり、昭和45(1970)年閉校しました。
今は、学校跡地を示す木標と、少し離れたアカマツ林の中に校歌の歌詞を刻んだ石碑が建っています。
また、児童たちの疎開生活の場となった穂高有明の青原寺の本堂は、平成になって建て直ししたため往時の面影はなくなりましたが、建物の一部に残る透かし彫りは当時のもので僅かに当時を偲ばせてくれます。
そして、通りから本堂へ向かう杉木立の参道は当時のままで、児童が疎開先の国民学校へ毎日往来したことを偲ばせます。
青原寺の話では、疎開学童のお世話をした先代住職夫妻が生存時、太子堂国民学校の集団疎開を経験した人たちが青原寺で同窓会を開いたり、個人的にたびたび訪れてくる人たちもいたそうです。しかし、高齢になったこともあり、最近はめっきり少なくなってきたということです。
青原寺は、同寺に残る文書から天文年間(1530年代)に建立(こんりゅう)されたことが分かっている禅宗の古刹です。明治期になっての廃仏毀釈で一時廃寺となりましたが、その後再建されています。
* 『 連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(16)~炸裂した爆弾 』で、爆撃を受けた国民学校は有明国民学校の実話がモデルになっています。
* 白黒写真は「写真記録 信州の昭和」(信濃毎日新聞社)などから撮ったものです。