赤レンガ建造物を尋ねて-11   活況に沸いた製糸業の遺産(岡谷市)

江戸末期の安政6(1859)年に横浜が開港され、外国との貿易が始まると日本の生糸は輸出品の花形として注目されます。

明治政府も蚕糸業を殖産興業として捉え、フランスなどから洋式技術を導入します。岡谷でも機械製糸によって生産量を伸ばす製糸家が現れ、いくつもの工場ができます。

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明治13(1880)年には、長野県は生糸生産高で群馬県を抜いて全国1位となり、岡谷を中心に製糸王国の基礎が確立しました。

やがて日本は世界一の生糸生産国となり、輸出品のほぼ半分を生糸が占め外貨獲得に大きく貢献するようになります。そんななかで岡谷の製糸業は全盛期を迎えます。

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岡谷に製糸工場が林立しましたが、なかでも規模を広げたのが、片倉組、山一林組、山十組などが有力でした。

いま、岡谷市内に往時の面影をしのばせる建造物が遺っています。赤レンガ造りの建て物としては、山一林組(中央町1丁目)と片倉組(川岸1丁目)の事務所棟です。

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山一林組の建て物内部は現在、「絹工房」として市民が生糸を織る体験学習の場として活用されています。

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当時の器具備品類も、一部当時のまま残っています。下は壁に据えられた配電盤です。他にも糸撚り機、大型金庫、テーブルなど多くのものが残り、再活用されています。

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ところで、山一林組では、待遇改善を求めて昭和2(1927)年に当時としては最大規模の1,300人、うち9割が女子工員が参加する労働争議が起こりました。

労使双方は、ストライキ、工場閉鎖を決行し19日間にわたる長期の争議になったといいます。          Img_7031

明治43(1910)年に建築された片倉組の事務所は、国登録有形文化財となっています。

片倉組はいち早く機械製糸を導入するとともに、蚕品種の改良、養蚕農家との契約で優良品質の生糸生産に成功し、さらに様々な分野の事業に手を広げていきます。

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片倉は製糸業を中心とした大企業、いわゆるコンツェルンを形成し片倉財閥ができあがります。日本全国はおろか台湾、朝鮮まで業務を拡張しました。三井・三菱の大財閥に次ぐ勢いがありました。

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しかし戦後、マッカーサーによる財閥解体の指令により、再び大きく立ち直ることはありませんでした。

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製糸事業を大きく発展させていた大正9(1920)年、片倉組は株式会社に改組し本社を東京に移しますが、本社事務の一部はここに残りました。

事務所棟の横に赤レンガ棟の蔵があります。備品庫 として使用していたのでしょうか。折れ釘も8本付いています。

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現在は関連会社の印刷会社の事務所として使用・保存されています。

 

 

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