鬼師が遺した飾り瓦 ~ 須坂市の瓦を発展させた森山家と三州鬼師・神谷喜三郎   

須坂の街は明治期になってから、製糸業で地域経済が潤い活況を呈しました。その後大正期(20世紀初頭)に入って最盛期を迎え、37の大規模工場に6,500人を超える工女が働く一大産業となりました。生糸の町として全国にその名が知れ渡ったといいます。

絹糸の原料となる繭は温度変化や湿気に弱いため、こうした影響を受けにくい土蔵が生産量の増加に合わせ保管・貯蔵のため繭蔵として次々と造られました。

土壁のため火災にも強く、白漆喰となまこ壁の美しさは、やがて財力をもった人たちの蔵としても新築されました。土蔵となると瓦葺きですので、これに伴い屋根瓦の需要が急速に伸びました。

003

須坂の瓦業は、穀町の森山喜惣治が文政4(1821)年に瓦屋の創業を須坂藩に願い出た文書が残っていることからこの時が始まりとみられています。

すでに開業していた森山瓦屋に、注文が殺到したことはいうまでもありません。

やがて町家の人々から桟瓦で葺きかえるだけではなく、防火や縁起を担いだ飾り瓦を屋根に乗せる求めが強くなりました。

Img_4505

このため森山瓦屋では特別な技量をもった鬼師・神谷喜三郎を三河から招いて需要にこたえるとともに制作技術の指導を受けます。

森山銀治郎、関太郎、武蔵と続く家業は、神谷から多くの制作技術を体得して須坂に優れた装飾瓦を遺したといいます。

森山家は現在、家業を親類筋に譲り瓦業を営んでいませんが、三州鬼師・神谷喜三郎が制作した飾り瓦が受け継がれ、備品庫に収納保存されています。現当主の裕士さんにお願いして、装飾瓦の数々を見せていただきました。

この中で、実に珍しい瓦鍾馗と対面しました。なにが珍しいかというと、まず両手でしっかりと刀剣を握っていますが、この刀は金物製で瓦ではありません。

焼き上げた後に何かが当たり刀剣部分が欠損し、金属製の刀などを持たせたものなどを見かけることがありますが、それとは違って制作当初からこの剣を粘土にはめ込んで焼成しています。

Img_4510

それから、胴上に甲冑を着けています。甲冑姿の鍾馗も多くはありませんが、よく見ると黄色、緑が鎧に、唇の周りに赤銅色の跡が見えます。ということは、彩色されていたことになります。焼成前か後かは分かりませんが、彩色されて屋根に飾られていたことになります。

森山家で拝見した装飾瓦の中に寒山拾得の寒山を模ったものがありました。茶目っ気たっぷりで柔和な表情が印象的です。

004

服部さんは「いいですね。特に顔が素晴らしいです。持っている巻物に「山里ハ」と百人一首の歌が書いてあるのもユーモアがあって楽しめますね」と絶賛しています。

神谷が制作した装飾瓦は、他にも鯛を手にした恵比寿や恵比寿面など保存されていますが、床の間に飾ってある「身体を休める和牛」にもお目にかかることができました。

当初から置物として制作したもので、なんとも穏やかな表情を見せながら休んでいます。

Img_4523

背骨やヒズメ、尾も丁寧な仕上げを施しています。置物として制作することを意識したのでしょうか、装飾文様も刻んでいます。

神谷喜三郎の鬼師としての技の多才ぶりに驚かされます。

This entry was posted in 未分類. Bookmark the permalink.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。