信州の鏝絵に見る左官職人の技-21   山中にある大海原を前に朝日を拝む虎の絵(長野市)

霊山・戸隠山の麓にある戸隠神社は、奥社・中社・宝光社などの五社からなり、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。

平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆の江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東比叡寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まりました。

山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木が続きます。

寺 社領内の森木をいかに守るかの厳しい掟があったことを示す事件が、安永9(1780)年に起こっています。宝光社近くの住民が薪を雪舟(そり=橇)に積ん で運んでいたのを禁止されている領内の木を伐採したのではないかと見とがめられ、後に宗徒全員が追放という厳罰が下されます。

戸隠では雪舟事件、あるいは雪舟引き事件と呼んでいる歴史に残る悲しい出来事です。

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明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。

宝光社は杉の古木の中、とても長くて急な270段余りの石段を登ったところに神仏習合時代の面影を残す荘厳な社殿があります。社殿は寺院建築の様式を取り入れた権現造りになっています。

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宝光社のすぐ近くの宿坊(旅館)の蔵に、波打ち際の岩礁の上で朝日を遥拝する虎を描いた鏝絵が遺されていました。

今では「百獣の王」というとライオン(獅子)を言いますが、東アジアの各国ではかつては虎を指した時期があったそうです。

四聖獣として西を司り、「龍虎合間見える」というように、龍と共に神獣の地位を占め、その威も絶大な神獣だったといいます。

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ところで、虎は森林や湿原を生息域とする動物です。虎が描かれるのは、竹林を背景にする姿が一般的だと思うのですが、これは大海を眼前にした姿です。珍しい画題になるのではないでしょうか。

そういえば前回の、稲村ケ崎での新田義貞を描いた鏝絵も逆巻く波を前にして、岩場の上に立つ姿を描いていました。

同じ鏝絵師が制作したものですが、戸隠の山中に暮らし海への憧れのようなものを抱いていたのかもしれません。

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かつての宿坊は旅館と名前を変えていますが、宿坊とは戸隠神社に神明奉仕をする神官たちが営む宿で、参拝する戸隠講の講員をもてなしてきました。それぞれが神殿を備えるという神仏混淆の時代からの伝統を引き継いでいます。

こちらも江戸時代から続く宿坊で、江戸時代には玉泉院と呼称していたそうです。
推理小説家の内田康夫の『戸隠伝説殺人事件』で、“信濃のコロンボ”こと竹村警部が事件の謎解きする中に「神社下の楠本」として登場します。

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