信州の鏝絵に見る左官職人の技-20   戸隠に「剣投ぜし」稲村ケ崎の戦勝祈願の図(長野市)

「戸隠そば」や「戸隠流忍者」などで知られる旧戸隠村は、長野市と合併して現在は長野市戸隠になっていますが、ユニークな戸隠の名前の由来は、神話の時代に遡ります。

古事記では、太陽神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴な行いを悲しみ、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたため世の中は光を失い真っ暗となります。

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作物も育たず、秩序も失われ様々な禍いが発生したため、困った八百万の神々が集まり相談の会議をします。そこで様々な準備をして岩戸を開け、天照大御神を外に出す計画を練り上げました。

いよいよその日、岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)がおどけた踊りを披露し、神々が大笑いします。

大爆笑の声に驚いた天照大御神が岩戸を少し開けた時、大力持ちの天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が天照の腕を取り外へ出し、岩戸を塞いでいた岩を力いっぱい投げ飛ばしたといいます。その岩が遠く戸隠の地まで飛んで来て、険しい戸隠山になったのだそうです。

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古くから霊山・戸隠山は山岳密教の聖地として栄え、明治以前の神仏混淆時代には戸隠神社は戸隠山顕光寺と呼ばれ宿坊を兼ねた神社でした。周辺には「戸隠三千坊」といわれるほど修験道場、宿坊があったと伝わります。

現在は40軒余りの宿坊、旅館が建ち並びます。その一軒の土蔵に横80cm、縦50cmほどの扇形の台座に描かれた鏝絵があります。

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描かれているのは、鎌倉末期の武将・新田義貞が稲村ケ崎で戦勝を祈願して黄金の太刀を海に投じて竜神に捧げたという『太平記』に出て来る場面です。

文部省唱歌に『鎌倉』という唱歌があります。鎌倉市内の名勝地をうたったものですが、その1番の歌詞に……

七里ヶ浜(しちりがはま)の磯づたい
稲村ヶ崎(いなむらがさき)名将の
剣(つるぎ)投ぜし古戦場

というのがあります。

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この中の「名将」とは新田義貞のことで、鎌倉幕府に反逆し上野国新田荘(今の群馬県太田市)で挙兵します。

挙兵したときは小さかった軍勢の規模を進軍しながら膨らませ、小手指原(埼玉県所沢市)、分倍河原(東京都府中市)などで幕府軍に勝ち、鎌倉へ攻め上がります。

後退を余儀なくされた幕府軍は鎌倉に籠もり、7カ所の切通しを固めたため新田軍は攻めあぐみます。

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ここで義貞は、鎌倉の由比ヶ浜と七里ガ浜の間にある岬・稲村ケ崎から攻め入ることにし、鏝絵にあるように進路を切り開くため、龍神に祈願し太刀を海に投じ願掛けをします。

そうすると潮が引くという奇蹟が起こり、大軍が干潟を通って鎌倉に入る道が開け、最後の東勝寺の合戦に勝ち挙兵から2週間で討幕を果たします。元弘3(1333)年のことです。

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漆喰細工で描かれている絵は、竜神が棲むという大海を波荒く浮き立たせ海鳥と旗指し物も入れて描き、ともすると単調になりがちな場面に動きを入れています。

この鏝絵がある旅館は、江戸末期に宝光社近くの現在地に宿坊として創業したといいますから、150年の歴史があります。明治中期にはこの土蔵が建てられているので100年を有に超えています。

母屋と土蔵はその後何度か、補修・改修しているものの鏝絵は当時のままで手を入れていないということですから、100年の歳月を経てもなお色褪せていないということになります。

 

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