六部塚~堀金・中堀

むかし、中堀のある家へ、夕方暗くなってから一人の六部が、よろよろとした足どりで訪ねてきました。
六部とは、お経の本と仏像を厨子(ずし)という二枚扉の堂の形をした箱に入れて肩に背負い、鐘をたたきながら家々を訪ね歩き、お経をあげいくらかのお金をもらうお坊さんのことです。

Img_6124            (六部は、厨子を背負い全国の家々を訪ね祈祷したといいます)

家のものが戸を開けると、「あるお家で厄(やく)払いを頼まれたのですが、手間取ってしまいこんなに遅くなり、宿まで行こうと思ったのですが、ここまで来るのがやっとで……。誠に勝手なことですが、こちらへ一晩泊めてはくださらぬか」と、途切れ途切れに言いました。
「まあまあ、ご苦労様なことで…。ご覧のとおり、むさ苦しいところですが、一晩でも二晩でもお泊りくだせえ」と、家の人が気さくに承知してくれましたので、家に上がりました。

「こんなに遅くまで…。夕飯をすぐお作りしますので」。家のおかみさんは夕食のときに作ってあったごちそうをありったけ出しました。「ああ、なんてありがたい…。ありがたい」と六部はうれし涙を浮かべながら、遅い夕飯を食べました。

「お疲れでしょう。奥に床を用意しましたので、お休みください」とすすめられたので、六部はお礼を述べ奥の部屋へ行き、布団に入りました。

次の日、朝遅くなっても六部は起きてきません。初めは疲れているのだろうと思っていた家の人も、あまり遅いので奥の部屋をのぞいてみると、六部は息絶えていました。「まあ、なんてことだか、旅先でなくなるとは気の毒に…」と、手厚く葬ることにしました。そして、「村の中に六部さまのお世話になったものがいるかも知んね。村の衆にも頼んでみるわ」と、村の人たちに呼びかけました。

132(豊科・熊倉に「六十六部供養塔」があります。嘉永5(1852)年、廻国の途中、熊倉の地で不幸にして没したため村人が供養したとの説明書きがあります)

すると、「おらとこは厄払いしてむらって、やっと病が治ったで、お礼にお弔いを手伝うわい」「おらとこも願かけしてもらっただ」と、大勢の人が集まりました。そして、雑木林の中に六部さまを手厚く葬りました。

そんなことがあって、ずっーと後のこと。この雑木林が開拓されました、そして、六部を埋葬した塚も切り崩されました。するとまもなく、ここを開拓した棟りょうが重い病気にかかり寝込んでしまいました。医者にかかり、薬もまじめに飲みましたが、一向によくなりません。「もしかしたら何かの祟りかもしれねえぞ。易でもみてもらっちゃどうだ」とすすめる人があったので、試しに見てもらうことになりました。

「六部塚が崩されたので、六部の御霊が悲しんでおられる。早く塚を元に戻しお祀りしなさい。そうすれば病も治る」と易者がいうので、土を盛りなおし祠を建てて供養しました。やがて病気もよくなり、すっかり回腹しました。

それから後、六部塚の祠にお願いすると、なんでもかなえてくれる、という評判がたち、村の人たちがお参りするようになりました。家族の病気が治るよう願を掛けたり、蚕(かいこ)のできがよいように拝んだりしたそうです。

* 『あづみ野 堀金の民話』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。

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