信州の瓦鍾馗を探して-25   上田市周辺で見た鍾馗さん

六文銭の旗紋で知られる真田昌幸(幸村の父)は、上田城を築き、約15年後の慶長3年(1598)、その城下に北国街道が通りました。

 
しかし、2年後の慶長5年に豊臣側と徳川側に諸国を二分する天下分け目の関ケ原の戦いが起こります。西軍・豊臣側に付いた真田軍は昌幸と息子・幸村の采配で、東軍・徳川側の援護のため関ヶ原へ向かう家康の息子・徳川秀忠の大軍を領内で長時間引き留めます。

 
このため、秀忠は関ケ原の戦いに間に合わないという結果を生みます。真田家は関ケ原の戦いに勝利した徳川家の怒りを買い、その後、上田城は徹底的に破壊されます。

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現在残っている上田城祉は、後年になって上田を治めた千石氏によって築かれたものです。

北国街道は加賀百万石など有力大名の参勤交代や佐渡金山から採掘した金を運ぶ要路として五街道に次ぐ重要な街道とされていました。善光寺参りに向かう庶民も頻繁に往来しました。
こうしたことから上田は、城下町というより北国街道の宿場町としての装いを濃くしていきました。

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北国街道の上田宿は柳町にありました。旅籠や商家が軒を並べるようにできた宿で、現在も200mほどの直線に伸びた街区に往時の姿を偲ばせるように軒の高さが同じ家並が整然と並んでいます。

最盛期は、呉服屋が25軒もあって賑わったそうです。街筋に柳の木が多かったことから柳町の名がついたといいます。

その宿の外れの出入り口になる家に上がっていました。

この鍾馗さん、よく見ると鍾馗さんにつきものの剣を持っていません。手首の状態から剣が欠落したようにも見えません。そして、何かに腰を落としているポーズにも見えます。

 

上田市と隣りの青木村に数年前に、愛知県在住の瓦鍾馗研究家の小沢正樹さんが瓦鍾馗の探索に訪れています。

小沢さんから位置情報をいただき、見て回りました。

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上田市下塩尻です。この一帯は、かつて製糸工場や養蚕農家が林立し、蚕都・上田の名を全国に知らしめた地区です。

旧北国街道が国道18号と並んで通っていて、少し中に入ると瓦葺きの大きな屋敷も残っています。

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1体は西塩尻駅の近くに、そしてもう1体は小沢さんが周辺を探索して発見した鍾馗さんです。その鍾馗さんが下の画像です。

ここの主人の話では、ここの家の前の通りが旧北国街道で、こちらのお宅の中庭に昔の番所があったといいます。

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近隣では通称「番所のうち」と呼んでいたということです。

鍾馗さんについては書き遺されたものがなく、いつころに屋根に上がったものかは分からないのですが、「親から、自分が生まれた昭和2(1927)年には上がっていたという話を聞いている」といっていました。

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次に向かったのが青木村です。6年前に小沢さんが訪れて以来、その後の消息が分からなくなっていたのですが、しっかり小屋根の上で厄神払をしていました。

 

 

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