十一観音さまと彦太郎じい~三郷・住吉

住吉に住んでいた彦太郎は、若いころ、女房と子どもをはやり病で亡くしてしまいました。葬儀を終えてしばらくしてから、近くの人たちに「わしは二人の供養とこれからの幸せのために、暇を見て巡礼の旅にでたいと思う。わしのわがままを許しておくれや」と、頼みました。

「むりもねえことだ。気のすむように信心してみるさ」といって周りが同意してくれたので、巡礼の旅に出ることになりました。

           256(むかし、ほうそうなどの感染症が流行した時、道祖神や村の十字路などに「ほうそう流し」を置いて悪病退散を祈りました=堀金民俗歴史資料館蔵)

次の日、白装束に身をかため、わずかの物を風呂敷に包みたすき掛けにし、雨具のゴザと檜笠(ひのきがさ)をかぶり鈴を手にして家を発ちました。自分の力で歩き続け、日が暮れれば札所(ふだしょ)のお寺さんに泊めてもらったり、時には野宿して一夜を過ごすこともありました。

春の田植えや、秋の穫り入れには巡礼先から家に戻り、手伝いをしました。その間に信仰する心を失ってはと思い、石工に頼んで十一観音を刻んでもらい、朝夕拝んでいました。

そして、また暇ができると巡礼にでました。あちこちを巡り歩くので、彦太郎が戻ると近所の人たちは珍しい話を聞きに彦太郎のところへ集まりました。

                              255(巡礼の旅に出る人の無事を祈って、藁人形を作って飾った「身代り人形」=堀金民俗歴史資料館蔵)

「秩父へいくとねえ、銘仙の着物の柄がとてもきれいで、秩父縞(ちちぶじま)という織物があるんね。それから、秩父青石といって庭石にするといいね。だが、持ってくるに大変だでね」

「坂東三十三ヶ所はいいところだが、話が分からねえところがあってせ、なんしろ坂東なまりといつて、ここらとは違う言葉を使っていてね」と、彦太郎の話はおもしろおかしく、時の経つのも忘れるほどでした。あちこちの観音霊場からもらってきたお札で、彦太郎の家もいっぱいになりました。

                   033(四国や秩父の霊場へ巡礼に行かれなかった人たちのために建てられた霊塔)

やがて彦太郎も年を取り、八十歳を越えました。でも足腰はしっかりしていて若く見えました。ある日のこと、隣の若い衆が山へ薪(たきぎ)を採りに行くことになり、家の前で支度をしていました。そこへ彦太郎じいさまが来たので「おはようござんす。じじは、あちこち出かけていたで元気だね」と、声をかけました。
すると彦じいは「そうさ、若えころからよく歩いたでなあ。だがへえ年だわや。おらなあ今日死ぬでな」といいます。

「じじ、縁起の悪いこというない。そんねに元気だに、なんで死ぬだい」というと、彦じいは「おら自分の寿命を知っているでな。ハッハッハッ」と笑いながら遠ざかりました。

若い衆が、あんなに元気だった彦じいが亡くなったと聞いたのは、山仕事から戻ったその日でした。
そんなことがあってから村人たちは、「信心深い人は自分の寿命も悟るものなのだ」と噂し、彦じいの遺した十一観音を大事に祀ったということです。

 

              * 『あづみ野 三郷の民話』(平林治康著)を参照しました。

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