むかし、真々部(ままべ)に旅の行者がやってきました。富山から飛騨に抜け、高い山々を越えて真々部の地にたどりついたといいます。
行者が念仏を唱えながら村の道を行くと、村の人たちは、みな畑仕事の手を休めて声をかけてきました。「おらとこの子どもが、咳が止まらないだいね。咳止めの薬は、ねえかいね」。
行者は、肩にかけた袋から薬草の包みを取り出し「それは苦しいだろうに。これを煎じて飲ませなされ。続けて飲ませればきっと良くなる」といって、分けてあげました。
(行人さまが、摘んだ薬草をいれた袋は、こうした編み袋だったのでしょうか=穂高郷土資料館蔵)
田の畔で、お年寄りが「背中が痛てえで、ちっとも働けねえ。弱ったこんだいね」と困っていると「この貼り薬をはって、動かさないでいなされ。じきに痛みが取れるでしょう。無理をせんようにのう」。
また、行者から借りた急須(きゅうす)でお茶を飲むと、どんな病気にもよく効くとのうわさも広がり、病気が良くなったときには、お礼に急須を二つ返すようになりました。こうして行者は、村の人たちから慕われるようになりました。
ある時、雨が続き川があふれて、田畑が水に浸かりそうになりました。村の人たちは、木の根っこや土袋を積んで、水の入ってくるのを止めました。行人さまも一緒に、雨の中で土袋を土手に積み上げました。おかげで、水を食い止めることができ、稲も濡れずにすみました。
「行者なんて言わねえで、行人さまって呼ぶじゃねえかい」ということになり、庵(いおり)を建てて行人さまに住んでもらうことになりました。
(行人さまを祀った社は『根誉行人』の額が掲げられ、西を向いています。西方浄土の考えに基づいているといわれています)
ある年、悪いはやり病が、村を襲いました。行人さまは夜も寝ないで、病人をみてあげました。「わたしが祈っているので、病はじきに良くなる。さあ、安心なされ」と、病人の手をにぎり、励ましました。けれども、はやり病には、どんな薬も効きませんでした。「なんとかして、お父の命を救ってもらえねえかいね」と、子どもは行人さまに真剣なまなざしで頼みました。
行人さまには、心に決めてきたことがありました。それは、自らが生き仏になって、これまで世話になった人びとの幸せを祈ることでした。みんながはやり病に苦しんでいる今が、その時だと思いました。
行人さまは、村の人たちに集まってもらいました。「わたしは、村の衆が、これからも病気や災害で苦しむことのないように祈り、生き仏となります」。
そういうと念仏を唱えながら、掘ってあった穴の中に入りました。「わたしが念仏を唱えて、鉦(かね)をたたいている間は、竹筒からお茶を注いでくだされ。頼みます」。集まった村の人たちは、涙を流しながら竹筒にお茶を注ぎました。
(お堂の前に大きな急須が飾られ、台座にも埋め込まれています。行人さまから借りた急須でお茶を飲むと、どんな病気も平癒したという言い伝えを物語るかのようです)
穴の中から七日七夜の間、鉦の音と「なむあみだぶ、なむあみだぶ」と、念仏を唱える声が聞こえました。集まった村の人たちは、涙を流しながら竹筒にお茶を注ぎました。八日目には「チリン、チリン」と鳴っていた鉦の音も聞こえなくなりました。
行人さまの亡くなったあとに、人びとは祠(ほこら)を建て、桜の樹を植えました。いつのころからか、お堂も建てられ、お参りする人が絶えませんでした。
(行人さまを偲んで建てられたお堂。昭和の初めに行人さまを慕う村民感情が爆発的な勢いをもって起こり参詣する人々が絶えなかったということです。この裏手に祠があります)
真々部の人たちは、行人さまの徳をしのび、今もお堂の掃除を欠かさず、周りに花を植えて大事にお守りしているということです。
* 『 あづみ野 豊科の民話 』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。