本格的なスープカレーのおいしさが実感できる「ハンジロー」

横浜・綱島のスープカレーの人気店が安曇野市に移転して来ました。オープンして間もない「スープカレー ハンジロー」です。

こちらのシェフ、スープカレーで名の通った「札幌らっきょ」で修業し、横浜でハンジローの味を作り上げ移転してきたのですから、安曇野に住む人たちにとってはこんなラッキーなことはないかもしれません。

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店は、R147を松本方面から走って来て穂高・常盤町の信号を右折して300mほど行くと常盤橋がありますが、橋のすぐ手前左手にあります。

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店内のカウンター席から目の前に高瀬川の支流の流れが見えますし、テラス席に座ると心地よい風と川音を聞くことができます。

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ここで本格的なスープカレーの味が楽しめます。ベースのスープが牛スジ、鶏など3種でしっかり作ってありますので旨みが実感できます。

ランチ(11:00~15:00)とディナー(17:30~21:00)のメニューが違います。ランチは「彩り野菜のスープカレー」(Aラン チ=1,380円)をベースに、これに信州ハーブ鶏が加わったBランチ(1,480円)、香味豚のローストになるとCランチ(1,580円)で、いずれも 五穀米かバケット、ドリンク、デザート付きです。

カレーの辛さはバラエティーで、0番から30番までとなっていてチョイスできます。スタンダードは1~5番で、2番が通常、家庭用カレールーの中辛レベルです。

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上の画像は、ディナーメニューの「骨付きチキンと 彩り野菜のスープカレー」(1,400円)です。素揚げ野菜がたっぷりで、ナスには隠し包丁の目が入っています。スープと揚げ野菜が絶妙の味わいを楽しませてくれます。

下が「森々キノコ焼きベーコンのスープカレー」(1,450円)で、素揚げキノコの量がたっぷり、そして肉厚のベーコンが満足感を与えてくれます。ライスに野沢菜が添えてあり、スープとの相性もピッタリ、箸休めにとても合います。

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スープとライスの量が大盛り、少なめと選べますし、カットレモン、ニンニクチップ、半熟玉子、ゴーダーチーズ、変わったところでは挽きわり納豆などもトッピングできます。

オープンして間もないのですが、おいしさが口コミで伝わっているようでディナータイムは予約客を優先しているようですので、電話予約した方が良いようです。

 

〔スープカレー ハンジロー 〕 安曇野市穂高4857-1/TEL 0263-82-0688 /定休日 水・木曜日/サイトはこちらです。

 

 

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安曇野は珍鳥・メジロガモに湧いています

安曇野は今、本来の生息地でないところに現れた迷鳥(めいちょう)をひと目見ようという人たちが押し寄せ、ちょっとした騒動になっています。

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安曇野は毎年、初冬になると遠くシベリアから数多くのコハクチョウやカモ類が越冬にやって来ることで知られますが、春の訪れとともに北帰行しますので越冬地周辺もしばらくは静かになります。

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しかし、10日ほど前に国内ではめったに見られないという「メジロガモ」が飛来しているのが発見され、連日新聞やテレビで報道されたこともあり、時ならぬ賑わいになっています。

迷鳥・メジロガモが生息しているのは、例年コハクチョウがやって来る犀川白鳥湖近くの池です。

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メジロガモは日本にはめったに飛来することがなく、過去数例しか観察記録がない珍鳥中の珍鳥になるそうです。通常今ごろは、中国西部や中央アジアで繁殖の時季を迎えているはずだといいます。

それだけに珍しさも手伝って、早朝から池の周りを他県ナンバーの車が数多く止まり、大型の望遠カメラを三脚に据えシャッターチャンスを狙っている人たちが列をなしています。この右手にも大勢います。

残念ながらわたしの手持ちのズームレンズでは、この画像が精一杯です。

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メジロガモのオスは、体全体が赤褐色という地味色で、名前の由来となったように目(虹彩)が白く尾羽の下側付近も白いのが特徴で、全長40cmくらいです。

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数は多くはないのですが、ケガなどで春になっても北へ帰れず次の仲間たちの飛来シーズンまで安曇野で過ごす野鳥たちがいます。

オナガガモ、マガモ、ホシハジロ、オオバン、コハクチョウなどさまざまですが、この日はキンクロハジロ(前を行く白黒のカモ)と仲良くなったようで、ぴったりと寄り添うように水面を右へ行ったり左へ行ったりしていました。

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この珍鳥で迷鳥のメジロガモ、いつまで 安曇野に滞在するかまったく分かりませんが、元気にこの暑さを乗り切ってもらいたいものです。

 

 

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レンガ積み職人が遺した建造物~信州編   路地裏の堅固な造り蔵(岡谷市)

一方通行路が交差する十字路から、50mほど先に目についた赤レンガの建物。岡谷市塚間町上浜の路地裏です。

高い構造で、遠目からも目を引きます。

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通りに面して長く、奥行きはその1/3ほどで、軒もほとんどありません。変わった造りで気になったので訪ねてみたのですが、留守で返答がありません。

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通り側は小さな窓枠があり、鋼製の装飾をはめ込み防犯対策を施してあるようです。

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外観からすると、これ以外に窓はありません。妻面にイギリス積みされたレンガが屋根まで続きます。

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反対側に回ると蔵につながる形で、レンガの高い外塀が繋がっています。大仰に言えば、外からの侵入者に備えているかのような造りです。

気になりましたので、半年後に再訪したところ家人に話しが聞けました。「先々代が明治の終わりの頃、建てたものです。製糸工場を経営していたのですが……」

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「片方で質屋もやっていたんです。中は1、2階とも沢山の棚があり、いろんな質草を保管していたのを見ていますよ」と話してくれました。

建て物の造りに対する疑問が氷解しました。それにしても改めて見ると、堅固な造りになっています。鉄扉もかなり頑丈に作られているのが分かります。

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岡谷といえば明治以降、製糸業で栄えた街。繭価や生糸の乱高下があると金策に走る経営者もいたでしょう。堅固な造りとともに、遠目からも目につくレンガ蔵は利用客の目印にもなったことでしょう。

 

「昭和30年代に屋根瓦は葺き替え、入り口の鉄扉を塗り替えたのですが、他は修繕補修などはやっていません」とも話してくれました。

有に100年を超え今も堅固に建つレンガ蔵が、路地裏にひっそりと佇んでいます。

 

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安曇野の「チョウの森」でオオムラサキが羽化する準備をしています

安曇野市の長峰山にある「チョウの森」では、これからいろいろな種類の羽化したチョウの舞い飛ぶ姿が見られる季節となって来ます。

先日僅かな時間でしたが、何種かのチョウたちの姿を見て来ました。

まず目にしたのは、前ばねに大きな目玉模様をつけたヒメジャノメ。少し薄暗い森の中では、よく見ないと見落としてしまいそうです。

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ハナショウブの上ではねを休めているのは、ツマグロヒョウモンです。

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なんでもツマグロヒョウモンの雄は見晴らしのいい山頂部で縄張りをつくり、飛来する雌との出会いを待つのだそうです。

ほかの雄が来るとスクランブルを掛け、占有地に立ち入らないように追い払うということです。

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チョウの森は、北アルプスの峰々と安曇野を一望できる長峰山(標高934m)にあります。

山頂東側の森林の一区画を数年前から整備し、チョウが食樹とする草木を植えさまざまなチョウが飛来する自然環境づくりを進めています。

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ミスジチョウです。昨年生まれた個体が越冬し、幼虫はイタヤカエデを食樹として大きくなりこの時期のみ発生するそうです。

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国蝶のオオムラサキの幼虫が、エノキの葉を食べていました。一本のエノキに何匹いたでしょうか。食欲も旺盛で、ほぼ食べつくされた枝もあります。

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これがやがて羽化して、あの大きくて美しい 紫色の翅をしたチョウになります。

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昨夏、唸るような羽音に驚き、鮮やかな翅の色に感嘆しました。今年ももう少しすると羽化し安曇野の空を舞ってくれることでしょう。

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もちろんモンキチョウやモンシロチョウもいましたし、カラスアゲハも元気良く飛んでいました。

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カラスアゲハは高い位置をかなり早い速度で飛翔していましたので、撮ることはできませんでしたが…。

 

 

 

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漆喰細工を尋ねる旅-5   絢爛華美で色褪せしないサフラン酒造の装飾蔵(新潟県長岡市)

艶やかで大きく描かれた鏝絵の大作として名高い長岡市摂田屋の機那サフラン酒造です。

くしくも訪れた日が、中越地震からちょうど8年を経た日に当たりました。

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中越地震は平成16(2004)年10月に発生した新潟県中越地方を震源としたM6.8の直下型の地震で、長岡市川口町では最大震度7の大きな揺れを観測しています。

死者68人、負傷者4,805人、家屋の全半壊は1万7000棟に上る大きな被害がでました。

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惨禍はそれだけに止まりませんでした。翌年の1月下旬から2月上旬にかけて記録的な豪雪となり、所によっては4mを越える積雪量となりました。

地震で被害を受けた80棟近くの建物が積雪の重みで倒壊するという二次被害にも見舞われました。  

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摂田屋でも機那サフラン酒造本舗の鏝絵蔵の漆喰壁が一部剥落したのをはじめ、多くの建物が傷ついてしまい長らく修復も進んでいませんでした。    Img_4598

ここに来て修復を終えて公開を再開したという話しがありましたので、この日ようやく都合をつけ訪れることになったのですが、震災から8周年になっていたということは念頭にありませんでした。

鏝絵蔵はすっかり修復され蘇っていました。

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蔵に描かれた極彩色の鏝絵は、塗戸(ぬると)すべてにとどまらず、軒回り、楣(まぐさ)まで蔵全体に及びます。

そして、腰周り高く貼りめぐされたなまこ壁が絶妙に調和を保っています。

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軒下には、頂上部の吉澤の吉の字を宝珠を模った中に入れた屋号を守護するように双龍が描かれています。

防火の願いを込めて描かれる龍の表情は険しくなく、和める印象を与えます

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鏝絵は十二支をはじめとする17種の動物、霊獣、9種の植物を色調鮮やかに描き出しています。

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正面東側の2階の塗戸に描かれているのが鳳と凰の2羽の神獣で、世の中が平和に保たれている時に姿を現わすという中国で生まれた伝説上の鳥で、鳥類の長とされます。

ベロ藍(ブルシアンブルー=ベルリン藍の訛)を使った鮮やかな紺青が目を惹きます。鳳凰は桐の木に宿し、竹の実を食べるといわれることから桐も描かれています。

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同じ1階の左手の観音開きの塗戸に麒麟、右手に玄武が描かれています。

麒麟は鳳凰と同じく平穏治世のときに現れると言われ、殺生を一切せず 肉も植物も口にしないとされる神獣です。

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鳳凰も麒麟も架空の動物なのですが、雌雄の別があるそうです。鳳は雄を、凰が雌で、麒麟も麒が雄、麟が雌を指すということです。

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玄武は蛇を体に巻きつけるのが多いのですが、この蔵は扉上半部に蛇を配置しています。

蔵の裏手(北側)に回ると圧巻です。

塗 戸に鮮やかな色調で描かれた干支の動物たち、腰高く二回の梁まで張られた丸盛四半張りのなまこ壁、軒下に幅広く蔵を被うように描かれた唐草文、桟瓦葺きの 屋根に載る鯱の飾り瓦、漆喰壁の左右に取り付けられた折れ釘と、どれをとっても一つひとつが完成された美の世界を創っています。

日本海から湿った海風が吹き付けても、おそらくは開け放たれたままで閉められることがなかったであろう絢爛さを誇る塗戸の極彩色漆喰絵を見ていると、実用性よりも装飾性を最大限追求した土蔵の典型といえます。

圧倒されんばかりの艶やかさと調和のとれた美しさです。 

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およそ窮乏生活に耐えた「米百俵」の土地柄に似合わない華美な装飾蔵です。

この蔵がある摂田屋は旧三国街道が走る要路であり、長岡藩の支配地から外れ幕府直轄の天領、しかも特別の格式がある上野寛永寺様御料地として酒や味噌の醸造で栄えたという歴史がありますので、そうした土地柄、地域性から来ているのかもしれません。

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盛時には摂田屋だけで五軒の酒蔵が軒を並べ、長岡藩内の需要の七割をまかなっていたといいます。

そして、機那サフラン酒の創始者・吉澤仁太郎は薬用酒の醸造事業に成功し一代で財を築き上げた立志伝中の人物だったといいます。かつて薬用酒の世界では、「越後のサフラン酒」は「信濃の養命酒」と並んで勢力を二分する勢いだったそうです。

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文久2(1862)年、貧農の二男として生まれた仁太郎は、25歳になった明治20(1887)年に摂田屋に来て、サフランの生産とサフラン酒を製造し竹筒に入れて販売したそうです。

家伝の秘酒・サフラン酒はサフランと10種ほどの植物抽出液をアルコールと混合し、疲労回復、滋養強壮、血の道、月経不順、冷え性などの薬効を謳い、行商に出たといいます。

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商才に長け、奇抜なアイデアの持ち主だった仁太郎は、行商に出るとまず街の薬屋を訪れ、酒の試供品を置いてもらい、そのあと投宿した先で腹をおさえて苦しむ一芝居を打ったそうです。

気の毒がる女中を盗み見しながら「実は最近サフラン酒という薬があって、これが痛み止めに効くというからぜひ手に入れてくれ」といって試供品を置いた薬店まで走らせ、これを飲んで元気を回復するという自作自演劇を繰り返し、サフラン酒を広めたという話が伝わります。

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やがて、新潟、酒田、さらには北海道各地へと日本海航路の北前船を利用して販路を広げ、昭和初期にはハワイまで販売網を拡張したそうです。

こうしてサフラン酒の醸造で財をなした吉沢仁太郎が建設したのが、この豪奢な鏝絵蔵です。事務所兼店舗に並んで豪邸も建っています。築年は大正15(1926)年だといいます。

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北側(裏手)の扉に描かれているのは7面で、2階は向かって左から亥(猪)と笹、寅(虎)に竹、子(鼠)と万年青、丑(牛)に紅葉、1階は午(馬)に桜、戌(犬)に牡丹、未(羊)に芭蕉が描かれています。

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午や丑には紅殻(ベンガラ)を用い、鳳凰や麒麟に使っているベル藍をはじめとする顔料は、長い年月の間風雨に晒されながらも今なお鮮やかな色彩を保っています。

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ところで、この漆喰細工はサフラン醸造の近くに住んでいた河上伊吉という左官職人が制作したということは分かっているのですが、伊吉がどこで左官の修業を積み、誰に鏝絵の技と顔料の配合を学んだのかなど、これまでほとんど分かっていません。

これだけのものを遺した伊吉ですが、長岡市はじめ近隣に当然あっても不思議ではない伊吉の作品が、これまでのところ他に見つかっていません。

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長岡の街は戊辰戦争と太平洋戦争終了直前の空襲で2度灰燼に帰しています。

B29爆撃機による焼夷弾の空襲を受け街の8割を焼失したといいます。このときに伊吉が描いた鏝絵も失われている可能性もあります。

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南側の2階の開き戸にも鏝絵があり、酉(鶏)と菊、卯(兎)に松が描かれています。

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さて、ここまできて十二支ですから足りない動物がいます。そうです、申(猿)と巳(蛇)がいません。なぜ伊吉は描かなかったのでしょうか?

塗戸が足りなかったからでしょうか、それとも描くにはばかる何かの訳があったのでしょうか?  

そうではなく、限られた塗戸や壁に何を描くかに当たって仁太郎あるいは伊吉は干支よりも四聖獣(四神)・五霊を描くことを重視したのではないでしょうか。四聖獣(四神)とは玄武(亀)・白虎(虎)・青龍(龍)・朱雀(鳳凰)の四体の瑞獣です。麒麟が入ると五霊となります。

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日本では十二支に比べて四神・五霊が描かれているケースは限られていて、薬師寺の薬師如来(中尊)像の台座、高松塚古墳(朱雀が盗掘により欠損)壁画、キトラ古墳壁画などでしか見ることができません。

そして気を付けないと見落としてしまうのですが、室内の壁にも2点あります。

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施錠されているため中へは入れませんが、ガラス戸越しに鶴と亀(玄武)、左手の壁に2羽の鶴と松が描かれているのが見えます。  

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しかし、幾つかの資料を見ると大黒天、恵比寿の2柱も描かれているとあるのですが、これが見当たりません。やはり室内奥の壁に描かれているのでしょうか。

 

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レンガ積み職人が遺した建造物~信州編   良質の生糸を製造した貯水タンク(岡谷市)

岡谷市の中心部の小高い丘の上に、コロセウム闘技場を彷彿とさせるレンガ製の遺構があります。丸山タンク(中央町1丁目)です。

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品質の良い生糸を製造するためには、良質の水が必要でした。明治中期以降、岡谷市では製糸工場の規模が拡大にするにつれ水が不足しました。

下は全盛期の頃の岡谷市の風景です。

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このため大正3(1914)年に丸山タンクを建造し、650m離れた天竜川岸から水を汲み上げ、ここに貯水しました。

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天竜川にポンプを設置し導管によって水を揚げるため、ポンプ小屋には常駐の番人がいたそうです。

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レンガ造りの外壁の内側に外径7.3m、3.1mのコンクリート造りの環状壁二重に内包しています。

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レンガ積みされた外壁の径は12mで、壁の厚さは、61cmあります。

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タンクに貯水した水は、製造した生糸を運搬する蒸気機関車に給水するため近くにあった駅舎構内に給水塔を造り、配水したそうです。

レンガはイギリス積みですが、2層に分かれ上段は目地を漆喰で下段はセメントで繋いでいます。

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レンガ積みの作業にとって目地の材料とその配合の良し悪しがレンガ造の見栄えを決め、耐久性を決めるともいわれます。

通常、目地の比率は全体面積の20~25%といわれ、目地の仕上げは施工の良し悪しにもつながるというわけです。

また、関東大震災でレンガ造の建造物が崩れ落ちましたが、東京駅や旧法務省、旧帝国ホテルなどのレンガ造の建物の被害が小さかったのは、レンガ積み職人が手抜きせず指示された目地の材料と割合を忠実に守り施工したことによるものという見方があります。

 

 

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鬼師が遺した飾り瓦 ~ 上田市の北国街道沿いにある瓦鍾馗(上田市、青木村)

六文銭の旗紋で知られる真田昌幸(幸村の父)は、上田城を築き、約15年後の慶長3(1598)年、その城下に北国街道が通りました。

 

 
しかし、2年後の慶長5年に豊臣側と徳川側に諸国を二分する天下分け目の関ケ原の戦いが起こり、真田家は西軍・豊臣側に付きます。真田軍は昌幸と幸村の采配で、東軍・徳川側の援護のため中山道経由で関ヶ原へ向かう家康の息子・徳川秀忠の大軍を領内で長時間引き留めます。

 

 
このため、秀忠は関ケ原の戦いに間に合わないという結果を生みます。真田家は関ケ原の戦いに勝利した徳川家の怒りを買い、その後、上田城は徹底的に破壊されます。

 

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現在残っている上田城祉は、後年になって上田を治めた千石氏によって築かれたものです。

上田市を通る北国街道は、百万石の有力大名・加賀藩の参勤交代や佐渡金山から採掘した金を運ぶ要路として、五街道に次ぐ重要な街道とされていました。善光寺参りに向かう庶民も頻繁に往来しました。

こうしたことから上田は城下町というより、北国街道の宿場町としての装いを濃くしていきました。

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北国街道の上田宿は柳町にありました。旅籠や商家が軒を並べるようにできた宿で、現在も200mほどの直線に伸びた街区に、往時の姿を偲ばせるように軒の高さが同じ家並が整然と並んでいます。

最盛期は、呉服屋が25軒もあって賑わったそうです。街筋に柳の木が多かったことから柳町の名がついたといいます。

その宿の外れの出入り口になる家の大棟に鍾馗の飾り瓦が上がっていました。

この鍾馗さん、よく見るとつきものの剣を持っていません。手首の状態から剣が欠落したようにも見えません。そして、何かに腰を落としているポーズにも見えます。

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上田市下塩尻は、かつて製糸工場や養蚕農家が林立し、蚕都・上田の名を全国に知らしめた地区です。

旧北国街道が国道18号と並んで通っていて、少し中に入ると瓦葺きの大きな屋敷も残っています。

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6年前に、愛知県在住の瓦鍾馗研究家の小沢正樹さんが瓦鍾馗の探索に上田市と隣りの青木村を訪れています。小沢さんから位置情報をいただき、見て回りました。

1体は西塩尻駅の近くにあり(上の画像)、そしてもう1体は小沢さんが周辺を探索して発見した鍾馗さんです。その鍾馗さんが下の画像です。

こちらの主人の話では、ここの家の前の通りが旧北国街道で、宅の中庭に昔の番所があったといいます。

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近隣では通称「番所のうち(家)」と呼んでいたということです。

瓦鍾馗については書き記されたものがなく、いつころに屋根に上がったものかは分からないのですが、「親から、自分が生まれた昭和2(1927)年には上がっていたという話を聞いています」といっていました。

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次に向かったのが青木村です。小沢さんが訪れて以来、その後の消息が分からなくなっていたのですが、しっかり小屋根の上で厄神払をしていました。

この鍾馗さんは、大正14(1925)年にこちらの屋敷を描いた水彩画のなかに小屋根の同じ位置に描写されていることから、このときにはすでに上がっていたことになります。少なくも90年を超えてこちらの家を見守り続けてきたわけです。

 

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メディカルハーブー49   フェンネル

フェンネルは、さまざまな料理にスパイスとして、また風味づけに使われています。パンを焼く窯にフェンネルを敷きつめ風味をつけたり、アップルパイ、カレーあるいは魚の臭みを消すために一緒に煮たり焼いたりして使ったりします。

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メディカルハーブとして注目されたのは、ダイエット効果からです。ギリシャ語でフェンネルのことをマラスロンといいますが、これは痩せるという意味を表すといいます。

利尿作用で体内の余分な水分を排出するとともに、胃腸内のガスでお腹が張った状態を改善したり適度に食欲を抑制する働きがあるためです。とくに甘いものを取り過ぎる場合、ティーにして飲むと甘いものへの欲求を軽減し血糖値を安定させる効果があります。

授乳期に飲むと乳汁分泌を刺激するため、母乳の出をよくすることでも知られます。咳を鎮める作用もあります。

また、腎臓を介した毒素排泄を助ける働きがあることから、膀胱炎、尿路感染、体液うっ滞、セルライトなどに用いられます。軽微なエストロゲン様作用があり、月経痛の緩和や月経周期を整えるために使用されたり、無月経、子宮内膜症、更年期障害などにも用いられます。

 

◆ 和名  ウイキョウ

◆ 学名  Foeniculum vulgare

◆  主要成分 ビタミン類、精油、 不揮発性油、フェノール酸、フラボノイド、クマリン、フラノクマリン

◆ 作用   麻酔作用、抗バクテリア作用、制吐作用、抗真菌作用、抗炎症作用、鎮頸作用、鎮咳作用、軟下作用、駆風作用、使用化促進作用、利尿作用、去痰作用、催乳作用、粘液溶解作用、ホルモン調整作用、刺激作用

 

 

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安曇野も梅雨空です

安曇野も梅雨入りしました。ご覧のように厚い雨雲に被われ、しとしとと、時には大粒の雨が間断なく降って来ます。

平年と比べ10日、昨年より11日早い入梅で統計を取り始めた63年間の中でも3番目に早いといいます。

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そんな中にあって今月前半に田植えされた稲は日に日に生育し、水田は青みを増して来ています。

北アルプスの峰々の積雪もこれから降雨とともにどんどん溶けだします。

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河川の水量も、降雨量や雪解け水とともに水かさを増やしています。

例年で行くと梅雨明けは7月20日前後になり、そのころ高山の峰から積雪も消えています。

 

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漆喰細工を尋ねる旅-4  老舗割烹の鏝絵広間(新潟県出雲崎町) 

長野道、上信越道、北陸道と乗り繋いで出雲崎へと入ったのですが、訪れた日は発達した冬型の低気圧の通過ということで天候が大きく崩れ、着いたころは篠つく雨になりました。

ワイパーを最大限に動かしても、フロントガラスに激しく叩きつけてきます。

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裏手に車を止めて降りると、すぐ目の前が日本海です。海上は大時化で、いつもは鳴きながら飛んでいるだろう海猫も羽をたたんで風雨を凌いでいます。午後3時前だというのに空一面が部厚い雨雲で、薄暗くなっています。

駐車場から正面玄関へと回りますが、奥行きの長いことに驚きます。この地方独特の造りで「妻入り」と呼んでいるそうです。奥行きの長さに比べると、間口が狭く感じられます。

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それもそのはず。江戸時代、幕府の天領(直轄地)であった出雲崎は、佐渡で産出した金銀の荷揚げや北前船の寄港地で、また北国街道の宿場町としても大変賑わいました。街には廻船問屋や旅館が建ち並び、働く人々が多くなるにつれ遊郭もできたといいます。

狭い出雲崎の地に2万人の人たちが暮らし、人口密度が越後一になったこともあったそうです。

当時は、間口の広さに対して課税徴収されたことから、賢く間口を狭く奥行きを長くして多くの人たちが居住できる家の造りにしたのが妻入りだということです。

今でも妻入り形式の家並が、海岸線沿いに4kmほど続いていて往時の跡を残しています。

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町内きっての老舗の割烹旅館「みよや」も妻入り形式の建物で、木造2階建て、瓦葺き、切妻屋根で、ベランダが付いた縦長の窓、妻面のハンマービームや湾曲した楣(まぐさ)など様々な意匠が施されたモダンな外観の建物です。

「みよや」の右書き看板文字を、翼を背に付けた天使が手で支えるように描かれているほか、両側の窓上の漆喰壁に鏝絵装飾が施されています。

天使は近世以降、無垢な子供の姿や女性的な姿、やさしい男性の姿を表現するようになったといわれますが、ここの天使はやや腹部に膨らみを持たせて描かれています。

出雲崎は禅僧の良寛さんの出生の地。「子どもの純真な心こそが誠の仏の心」と悟り、子どもたちとよく遊んだという言い伝えがあります。この天使を描いた鏝絵師にも、良寛さんと遊び興じる子どもの姿が思い浮かんだのかもしれません。

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中に入ると妻入りの家らしく、玄関から奥の厨房まで長い三和土(たたき)が続いています。

2階の大広間が「鏝絵の間」と呼んでいる部屋で、中心飾りや格縁(ごうぶち)、繰形(くりがた=モールディング)などに高度な技術が残されています。

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当代で3代目となる主人は、「以前から割烹旅館だったところを祖父が買い取ったと聞いています。一部を改装したものの原形は変えていません」といいます。

建築当初からの和洋折衷の様式を今に残しています。

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この天井部の中心飾りも、とても手の込んだ装飾を施しています。3層に広がる同心円上に描かれた幾何学模様や植物文様のデザインが実に巧みです。

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補助灯の中心飾りはアカンサスの葉飾りをモチーフに、中央灯の中心飾りを引き立たせるようシンプルにデザインしています。

縦縞の繰形や内壁の格縁にも丁寧に鏝が入っています。

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縁の中心部に装飾した一点があります。大きさ、設置位置からいって鏡をはめ込んだ姿見だったのでしょうか。

今は下絵をガラスで覆った額縁風の壁飾りのようになっています。

みよやの北国街道に面した東側正面の延べ37㎡が登録有形文化財になっています。

見学・取材を終えて外に出ると、雨はより勢いを増したようです。

晴れていれば日本海を赤く染める夕日と佐渡が見えるはずなのですが…。

 

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