漆喰細工を尋ねる旅-3   長八が育てた漆喰細工の弟子たち (東京・四谷) 

四谷見附の左官・沓亀こと吉田亀五郎が制作した5点の扁額が、四谷の総鎮守・須賀神社に奉納され、拝殿に飾り展観 しています。

そのうちの1点が、彩色された素戔嗚尊(すさのおのみこと)の大蛇退治の一場面を描いた作品です。

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吉田亀五郎が八俣の大蛇(おろち)を征伐する素戔嗚尊の姿を淡彩で描き、額縁の大蛇の細工は亀五郎の門弟・伊藤菊三郎が制作したといいます。

この作品は、もともとは明治30(1897)年の須賀神社大祭にあたり、旧四谷伝馬町の御神酒所飾りとして奉納されたもので、祭礼神酒所に飾られていました。

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大正4(1915)年の大正天皇即位の御大典記念として須賀神社に奉納されたといいます。

須賀神社の須賀とは、素戔嗚尊が出雲の国で一つの身体に八つの頭と八つの尾を持った八俣の大蛇を討ち取り、その縁で櫛名田比売(くしなだひめ)と結ばれ新居を持つため訪れた地が気に入り、「吾れ此の地に来たりて心須賀須賀し」と感嘆し、そこに宮を造ったという神話に由来します。

従って須賀神社の主祭神は素戔嗚尊になりますので、奉納場所が変わったこともうなずけるところです。

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ほかの4点の鏝絵は白漆喰を塗り重ねた鏝絵で、須賀神社の境内にあった大鳥神社の土蔵戸前に明治27(1894)年に制作したものです。

このうち2点が唐獅子、他の2点が温め鳥(ぬくめどり)を描いた大作です。

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唐獅子は唐(=中国)伝来の獅子(=ライオン)ですが、仏教にも所縁のある霊獣で、魔除け、聖域守護の意味でよく描かれます。

狛犬と一対のものとして扱われる場合が多いのですが、本来は知恵の神とされる文殊菩薩に従う神獣とされます。「獅子坐」は仏尊の座るところ、「獅子吼」といえば 仏尊の説法を指します。

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鷹と小鳥の図柄を題材にした「温め鳥」です。

冬の寒い夜、鷹は小さな鳥を捕えてその体温で自分の足を温め、夜が明けると放ってやるといいます。そして、鷹はこの後、その鳥の飛び去った方向には決して向かわないともいいます。

鷹は、その優れた飛翔力や鋭い嘴、爪による攻撃力など、精悍なイメージを持つ猛禽類の代表格ですが、自らが受けた恩に報いる例えで使われます。

温め鳥は、冬を表す季語にもなっているそうです。

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拝殿に飾られている鏝絵の中に、もう1点目を惹くものがあります。伊豆の長八が描いた山水画で、額装されています。額縁に奉納の文字とともに寄贈した作家の井上 靖の名が記されています。

井上が叔父のかたみ分けに貰った品で、書斎の片隅に立て掛けてあったものを夫人の提案で須賀神社に奉納することになるのですが、その経緯を小品『土の絵』に記しています。

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入江長八は多くの弟子を育てましたが、明治初期から中期にかけての「鏝細工の五人男」の一人として亀五郎の名があります。

漆喰細工の師弟関係にあっ た亀五郎は長八を慕い、亀五郎の弟子・伊藤菊三郎は「其の長所を慕うさまは乳児が母の乳房を慕うようであった」と語っていることからも長八が亀五郎に計り知れない影響を与えたようです。

亀五郎は温厚な性格で弟子の習作を丁寧に見て指導し、多くの優秀な弟子を育てたいいます。

亀五郎に教えをうけた中には、長八鏝絵の伝統を受け継いだ最後の左官職人といわれた伊藤菊三郎、池戸庄次郎らがおり、藤井平太郎は近年まで活躍していました。

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須賀神社では本殿に、天保7(1836)年に描かれた三十六歌仙絵を飾り展観しています。平安時代中期の公家・藤原公任が優れた歌人三十六名を選定しそれぞれの歌人の肖像画に代表作一首を添えたも ので同社が社宝としているものです。

御内陣金庫のなかにあったことから、東京大空襲の災禍から免れたものです。

 

 

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