赤レンガ建造物を尋ねて-1   はじめに

昨年6月30日、震度5強の地震が松本市を襲いました。少なくない家屋や施設が実害を被りました。

国の有形文化財に登録されている同市丸の内2丁目の旧山崎歯科医院の赤レンガ棟は、損壊を免れたものの壁にひびが入ったほか、壁面の一部が傾くなど大きく損傷しました。

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明治21(1888)年にイギリス積みされた総2階建てのレンガ造りでしたが、所有者は維持が困難と考え、取り壊すことに傾きました。

これを知った市民の間に取り壊しを惜しむ声が強まり、まもなく「保存する会」(後に「残す会」に改称)が立ち上がり、寄付金を募りながら補修強化して保存する活動が続いていました。

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しかし、一年余りの熱心な活動にも関わらず、修繕補強にかかる費用が集まった募金額では間に合わず、市でも買い取った場合の代替地の確保もめどが立たないことなどから、保存は暗礁に乗り上げました。

所有者の歯科医も「同規模の地震がくると崩れる恐れがあると言われている。これ以上周辺に迷惑と心配は掛けられない。市には移築をお願いしたが折り 合いがつかなかった。個人の力で補修や維持管理をするのは困難で、この建物に住み続けることもできない」と取り壊すことになりました。

画像は修繕補強で原形を遺していた時期と、取り壊し作業が進められた時の模様です。

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松本市は明治19(1886)年、21年と立て続けに大火に見舞われ、多くの家屋が焼失しました。同レンガ棟はこの大火を教訓に耐火性を考えて造られた長野県下では初期のレンガ建築で、壁面には小ぶりのアーチ窓を開け、寄棟の瓦屋根が載るという構造になっていました。

明治期のレンガ建築の典型を示すとともに技術水準の高さを示していることなどから、昭和41(1966)年に県内で初めての国登録有形文化財となり、多くの市民や観光客から親しまれていました。

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幕末に日本に入ってきたレンガは文明開化を象徴する建築資材として脚光を浴び、官営の建物や工場に取り入れられまし た。先人たちは西洋文明を日本の風土に合わせレンガの用い方を発展させ、壁材としてだけではなく腰壁、束石(つかいし)などと組み合わせて使用したりもし ました。

しかし、レンガ建築が民間にも普及し始めた大正12(1923)年に関東大震災が襲い、鉄骨を入れるなど耐震構造を十分施していなかったレンガ建造物は崩壊しました。

これを契機に地震国日本にはレンガは建築資材として不向きとされ、日本の近代化を象徴する建材としてもてはやされた短い華やかな時代は、急速に終わりを迎えました。

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この時を生き残ったレンガの建造物の中には、その後の戦争や災害、あるいは戦後の開発のなかをくぐり抜け、今も現役で使用されているものもあります。

往時の外構を遺しながらも他に転用されている建物、復元再生され地域のシンボルや町おこし、観光資源として活用されているものなどもあります。

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今に遺る明治時代以降に造られたレンガ造りの建造物は、ノスタルジーを感じさせると同時にさまざまな歴史を見てきた証人ともいえます。文化財として残る各地のレンガ建造物は、市井の名もないレンガ積み職人が一枚一枚積み重ねる作業を通してでき上がったものです。

今は遺っていても、明日には姿を消すかもしれない赤レンガ建造物を安曇野・松本-信州-全国へと少しずつ地域を広げて拾い出し、記録しておきたいと思います。

できれば、既存のリストに載っていない“遺産”も発掘できればと考えています。

 

 

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