瓦鍾馗の探索仲間のnaoさんから「東川手で新しい鍾馗さんを見つけました」との情報をいただき、さっそく出かけてきました。
新築した家の小屋根にあった鍾馗さん。一目で「ん~ん、この鍾馗さんは、あの兄弟だな」と、つぶやいてしまいました。
明科中川手で見つけた下の鍾馗さん(前回掲載)のことです。兄弟ということは生みの親、すなわち制作した鬼師が同じということです。
上と下の鍾馗さん、よく似ていますよね。被っている破帽や顎鬚(あごひげ)、腰紐の位置や裾の流れなどに少しずつの違いはあるもののそっくり似の兄弟です。
同じように下の2枚も兄弟筋です。同じく東川手の地内にあります。
このように昔の鬼師は、似たものは作ってもそっくり同じものは作らないという気概をもって制作に当たりました。
もちろん制作経験を積むにつれ、作風が徐々に変化することは多くありますが、作者の個性、作風といったものがどこかに残ります。
そうしたことを念頭に比較対象して見ると、また違ったおもしろ味を発見できるのかもしれません。
これらの兄弟鍾馗が上がっていた家人からの聞き取りのうち、2軒は「少なくとも100年は経っている」とはっきり答えてくれました。ということは鍾馗さんの年齢は、いずれも100歳を越えていることになります。
100年前となると明治の末期になります。当時は物資の運搬も現代とは大きく違い、けっこう重量のある壊れ物の瓦鍾馗を遠くには運べません。
それと、信州の冬は凍みて仕事ができません。このため瓦屋では、雇用している職人を三州(愛知県三河地方)へ出稼ぎに出していました。
冬期間を除いて、当時の信州の瓦屋が窯焚きをして焼成するのは、6日に一度の割合だったといいます。そうなると、近い集落内の需要に応えるのが精一杯で、販路を広げるということはとうていできません。
ですから、同地域内に同じ鬼師の手による鍾馗さんが見つかるのは、当然と言えば当然なことですし、兄弟鍾馗が近くにあるというのもうなづけるところではないでしょうか。