穂高と並び、明科も河川が多い地域になります。特に明科を流れる犀川は、上流域で幾つもの河川と一緒になって水量を増し川幅も広くなっています。
明科の木戸(東川手)、荻原(七貴)の両地区はこの犀川によって分断され、日常の往来に不便をかこっていました。明治以前は橋はなく舟で対岸との行き来をしていました。
しかし、舟渡しとなると夜間や大水の時は川が渡れず、両地区は水かさが低くなるまで途絶した状態が長く続いていました。
明治10(1877)年になって、こうした不便さから逃れるため村の人たちが私財をなげうって初めて橋が架けられました。吊り橋で「信犀橋」と名付け
られました。
しかし、まもなく大水で落橋。その後、なんどか新たな橋を架けましたが洪水で流されてしまうということが続きました。
しばらく橋のない生活を余儀なくされましたが、昭和になって犀川に最初に鉄鋼製の橋ができました。昭和5(1930)年に完成し、長さ116㍍
の3連アーチの当時としては大変モダンな橋だったといいます。
上はこの橋の着工を喜ぶ竣工式当日の写真ですが、お祝いに芝居の興行なども催されました。
しかし、交通量が増え、橋幅も狭くなったことから昭和48(1971)年に上流部50㍍のところに新橋を架け替えました。昭和27(1952)年新道路法のルート変更により現在は、国道19号に架かる橋となっています。
下の写真で向こうに見えるのが、現在の木戸橋になります。長さ192㍍、車道幅7㍍、歩道幅は2㍍あります。
旧木戸橋の橋桁の一部も残っていて、すぐ近くに舟渡し場の跡を示す標識も建っています。
道路事情が未整備だった昔、松本から明科を通って信濃町までの間、物品の運搬は主に舟運に頼っていました。盛時には、舟30艘、船頭80人を数えたといいます。
上の写真は、松本市巾上にある舟着き場跡に建つ記念碑です。
犀川は、明科に入ってから大きく蛇行を繰り返します。蛇行すると、川床のあちこちに土砂が滞積します。大水が出た後などは、座礁したり舟底を擦らないよう
油断できなかったようです。
また、今はほとんど無くなりましたが、川のあちこちに奇岩があり明科地域を通るときは船頭は気が抜けなかったという話が伝わります。
* 白黒写真は「懐かし写真館 昭和の街角 大町 安曇野 北安曇」(郷土出版社)から撮りました。