青柳の大切通しを抜けて麻績宿(麻績村)へ向かう下り坂を降り切った時、目に飛び込んできたのが小屋根の壁面に据えられた鍾馗さん。
信州では関西で見られるのと違って、こうした位置にあるのはそう多くはありません。珍しい飾り方です。
古いものではなさそうですが、小鬼を捕まえています。小鬼を捕まえている鍾馗さんも信州では、そう多くは見られません。
「こちらは、関西の出身かな?」などと勝手な思いをめぐらせたりして…。
いよいよ麻績宿に着きました。
麻績一帯は、戦国の頃は武田・上杉両軍の緩衝地帯で、江戸期になって幕府の天領となりました。麻績宿がおかれ善光寺への参拝やお伊勢参りに行く人々の往来があり、賑わいました。
麻績が宿駅となったのは慶長18(1613)年のことで、安政元年(1853)には東西710㍍に本陣のほか問屋2、旅籠屋29を数えたといいます。
かつての宿場の匂いを漂わせる通りに面した大きな民家の越屋根(煙出し)に、剣の切っ先を前に向けた鍾馗さんがいました。
そのすぐ近くに、もう一体の瓦鍾馗が。
こちらは刃が落ち、大きな鍔際(つばぎわ)が残っています。残っている鍔際からすると、この鍾馗さんも刃は正面方向に向けていたのでしょうか。
善光寺西街道は、麻績宿をでると標高1,252㍍の聖高原の山越え(猿ケ馬場峠)をし、桑原宿(千曲市)へと向かいます。
聖高原の頂上に人造湖で、かつては馬場ケ池と呼ばれていた聖湖(ひじりこ)があり、夏はさわやかな風が吹き抜け魚釣りなどで遊ぶ人の姿も見受けられます。
かつては正岡子規をはじめ、多くの文人墨客も旅でここを通っています。竹久夢二や若山牧水の歌碑も建ちます。
途中、芭蕉や一茶、蕪村も句にした「田毎の月」で有名な棚田を横に見ながら峠を下ります。
棚田は姨捨(おばすて)伝説が残る冠着山(姨捨山)から、段々状に続く大小2,000枚に及ぶ不揃いな田んぼで、江戸中期から開田が始まったといいます。
棚田の先には、広々とした善光寺平が見渡せます。旅人たちは、善光寺ももうすぐと感極まり念仏を唱えたといいます。
棚田を過ぎると、やがて桑原間宿に着きます。
桑原宿で瓦鍾馗は目にすることはできませんでしたが、猫面瓦がありました。
ところで、雷がなっているときに「クワバラ、クワバラ」と呪文(?)を唱えると、そこには落雷しないという伝承がありますね。昔、雷が轟いていた時、ここの領主が村人を怖がらせる雷をつかまえ、懲らしめたそうです。再び落ちて来ないことを条件に許したたことから、その時以来、「くわばら」の声が聞こえるところを雷は避けるようになったという民話が残ります。
桑原宿を過ぎると、次の宿場は稲荷山宿(千曲市)になります。稲荷山宿は善光寺西街道の最大の宿場町で、文久2(1862)年の記録では、家数436軒1,625人であったといいます。
この宿場は呉服問屋も多く、ひと月に9日市が立ち、商人の往来が多く賑わったそうです。明治以降も昭和恐慌のころまで、繭(まゆ)や生糸、絹織物で隆盛を極めた歴史があります。
今も往時の面影が色濃く残り、かつての商家や旅籠の雰囲気を残す白漆喰になまこ壁の家並みが続く中に…
不思議なものがありました。瓦製でよく見ると、KICHの文字が刻まれています。
木窓の前に飾られていますので、魔除けなのでしょうか。
この近くに激流の滝を登ろうとする鯉がいました。鯉瓦はこれまでにも数多く見てきたのですが、滝まで描いたものは初めて見ました。
瓦鍾馗は宿場では目にすることができなかったのですが、少し離れた鳶職人さんの宅で見ることができました。
この鍾馗さん、目もと涼やかでイケ面風、いかつさはありません。美男におわす鍾馗さんは、屋根上から玄関口を見下ろし、怪しい侵入者がいないか見張っているかのようです。