善光寺西街道は、会田宿(松本市四賀)の外れにある常夜燈を過ぎると立峠(998㍍)という山越えに入ります。この峠道は昔の人々にとって難儀な道だったようです。
この峠を越えると、乱橋(みだればし=筑北村)に着きます。ここは間宿(あいのしゅく)より小さな立場(たちば)で、本来の宿場と違って休憩用の場所が何軒かあった“宿場”になります。立峠を越えてきた旅人は、ここでひと息いれて旅を続けたことでしょう。
乱橋大門の鍾馗さんは、おっとりとした表情をしていました。悪霊払いしっかりね。
乱橋は、今でも昔からののどかな里山の風景が残ります。
乱橋宿には、もう一体の古い鍾馗さんがあります。この鍾馗さんを眺めることができるのは、細い小路からでこの角度になります。
右手の剣は欠損しているのですが、こう見ると何か踊っているような姿に見えます。「踊る鍾馗」とでも名付けましょうか。
乱橋を抜けて、西条宿(にしじょうじゅく=筑北村、ここも立場)へさしかかると高い屋根に見えた、かなりの年代ものと見える瓦鍾馗さん。
さらに足を運んで筑北村青柳へと向かいます。
三方を山で囲まれた青柳宿は、急な坂道沿いの600㍍ほどの両側に宿場がありました。坂の宿と言ってもいいかもしれません。街道の起点となる洗馬(せば)宿から数えて、7番目の宿場になります。
人家は盛土して石垣で土止めした上に建っています。
坂道の片側の石垣の下に用水路が造られ、水が流れています。石で組まれた階段があり、かつては生活用水として利用されていたことが分かります。
青柳宿にも一体の鍾馗さんがあります。
青柳地区では里坊稲荷神社の春の例大祭に合わせ、7年に一度「キツネの嫁入り行列」が村をあげて行われます。
青柳宿から麻績宿へ向かう途中にある切通しです。案内板には「街道随一の名所」と記されています。この切通しは、長さ27㍍、幅3.3㍍、高さは6㍍あります。
天正8(1580)年に切り開かれ、その後江戸期に三回にわたって切り下げられています。岩の右手上部に普請記録が残されています。この切通しの開通により、街道の通行が容易になったことが偲ばれます。
切通しは、今でも手ノミの跡を残しています。