三州からも鬼師が安曇野に技術習得にやってきた!

豊科新田にある銘の入った瓦鍾馗の後日談があります。

この鍾馗さんを制作したのが、明治元年から現在も瓦業を営む豊科田沢の増澤瓦店であることについて過日書きました。

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ここに実は、鬼瓦制作の相当な技術を持った鬼師がいて、鬼瓦の先進地・三州(現愛知県高浜市)からも技術修得に出稼ぎに来ていたという驚くべき事実が分かりました。 

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上の写真の鍾馗さんの制作者を調べている頃、瓦鍾馗の研究を続けているkiteさん(愛知県在住)から「信州の瓦屋と三州の渡り職人 屋根瓦は変わった」という資料をいただきました。長野市立博物館が平成10年に開催した特別展の時に刊行したものです。

長野県の瓦と瓦職人の歴史について考察しているのですが、その中に興味深い記述があります。

この増澤瓦店の創業者・増澤長次郎は、「明治元年に三州から職人を雇い田沢で瓦店を始めました。彼自身は瓦作りはできませんでしたが、三州の職人を雇うと同時に弟子も取って多くの瓦職人を育てました。その中には、地元の者はもちろんのこと、三州や山梨から信州に瓦作りを学びに来て、一人前の職人となって地元に戻って行く者も多くいたそうです」

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「どのような理由で、地元だけでなく三州や山梨からも弟子入りに来たのかは分かりませんが、瓦技術を学びに本場三州から来るほど、信州の瓦づくりの技術は三州にも引けを取らないものであったことが推察されます」というものです。

増澤瓦店の敷地の一角に「恩師増澤長次郎翁之碑」と刻まれた頌徳碑があり、長次郎の死後、三州鬼師を含む弟子たち総勢40数人が創始者を称えて建てたものです。

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三州といえば、全国にその名を轟かせた瓦の一大産地で、当然のことながらそこには高い技術を持った職人が集結、育成されていました。
その三州から安曇野に、技術習得のため職人が渡ってきていたというのです。

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増沢瓦店の屋根に、今も多数の鬼瓦や装飾瓦が乗っています。これらは当時の職人たちが作ったものなのでしょうか。

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そう思って見ると、なかなか味わいのある鬼瓦に思えてきます。

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時代の流れの中で高い技術力をもった瓦職人も今はいなくなり、手びねりの装飾瓦も作られていません。店の前には、量産された飾り瓦が見本品として展示されています。

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