豊科新田の銘が入った鍾馗

豊科新田の路地裏を歩いていたら、鍾馗さんが目に飛び込んできました。naoさんが発見した瓦鍾馗が飾られている宅と、道を一本挟んだすぐ近くです。

珍しく銘が刻まれた鬼瓦です。左に「増沢製造」、右側に「二塲城山下」(塲は場の異体字)と読み取れます。

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そして、反対側に回るともう一体の鬼瓦がありました。

「ん…、これは何者?」

にこやかな表情、強い風を受け髪も衣服も左にたなびき、身体もこれに抗うかのように「く」の字に曲げ足に力をいれて踏ん張っているようです。

明らかに鍾馗さんでないことは確かです。

では、この人物瓦は何もの? これが知りたくて、そして、できれば制作者、制作年代なども分かればと思い、この銘を手掛かりに探しました。

紆余曲折、暗礁に乗り上げたこともありましたが…。ようやく探し当てることができました。    

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安曇野市豊科田沢で現在も瓦業を営む増沢瓦店が制作したものでした。ここは以前、増澤製造の名で瓦を製造していて、焼成する達磨窯もあったということです。創業開始は、明治元年と伝えられています。

「二塲城山下」の後ろ三文字は、安曇野の桜の名所である光城山のすぐ近くにこの瓦店が所在することから、「城山下」の意味することが分かりました。

では「二塲」は?  これが分かりません。   

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増沢瓦店の話では、すぐ近くに瓦に適した粘土の産出地があり、最盛時は七軒の瓦業者が軒を並べたといいます。しかし、やがて良質の粘土が採取できなくなったこと、それと時を同じくして瓦の伝統的産地の三州瓦に押されてきたこと、住宅事情が変わり需要が廃れてきたことなどが重なり、次々と廃業していったということです。

増沢瓦店では、先代まで瓦専門店として営業していて、製作技術を学ぶため三州から鬼師を呼び寄せたと言います。同店には最盛時、五人の鬼師がいて仕事に励んだそうです。

「安曇野の冬は凍みて瓦の仕事ができないので、冬になると職人たちは三州に出稼ぎに出た」(先代の奥さんの話)ともいいます。

そして、先代が故人となっていることから制作者は確認できなかったのですが、「三州からきた鬼師か、鬼瓦制作の技術を体得した腕のいい職人だったNさんが作ったかもしれない」(同)ということです。

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上の写真は、装飾瓦があったところから見た周りの風景です。火の見櫓上の風向計がやや傾いているような…。それはともかくとして。

「何者?か」について瓦鍾馗研究家の服部正美さん(京都市在住)は「よく見ると『雲』に乗っているようなので、ひょっとすると鍾馗ではなくて道教の人物かもしれませんが手の部分がよく見えないので、何ともわかりません。とにかく、不思議なものを発見されましたね。信濃の鍾馗さんは面白い!」とのコメントをいただきました。

そういえば、鍾馗さんも道教系の人物ですので、その方面の人物を描いているのかもしれません。

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