成相に「お天王(てんのう)さま」と呼ばれている八坂神社があります。むかし、この境内の隣りに大きな池があったそうです。その池の端には、広大な雑木林がありました。
そこを切り開いて水田を造ろうという話が持ち上がりました。そして、話し合いの結果、村の人たちが総出で開墾することになりました。
くわ、すき、まんのう、じょれん、もっこなどを手に手に持って、村人たちが集まりました。木を切り、その根っこを馬にひかせて引き抜きます。大きな石を掘りだし運び出し、土をならして行きます。荒れ地を切り開くのは、危険がともなう仕事です。それでも、だれもかれもみな、力の限りに働きました。
(掘りだした大きな石を運ぶ時に使ったもっこ。前後二人が担いで運びました。=豊科郷土博物館蔵)
春の彼岸から始めた開墾でしたが、いつの間にか夏が過ぎ、人びとには疲れがでてきました。八坂神社の秋祭りまでもう少しと、励ましあって作業を続けていました。
和助がくわを振り下ろしたときです。「チリーン」と、きれいな音がしました。「なんの音ずら?」。並んで掘り起こしていた久蔵も、掘る手を休めてのぞきこみました。「そうっと、掘ってみましょ、何かあるかも知れんで」。しばらく掘ると、キラッと光るものが見えました。「あった、あった」と、和助がいうと「こりゃなんだ。金の仏さまじゃあねえか」と、久蔵が驚いた顔をしています。
土の中から出てきたのは、それはそれは美しい、金でできた仏像でした。そっと辺りを見回すと、少し離れたところで、何人もで大きな石を馬に引かせて運びだしていて、だれも気づいた様子はありません。和助は、声をひそめて言いました。
(和助が土の中から掘り出した金色の仏像というのは、こんな感じのものだったのでしょうか?=明科歴史民俗資料館蔵)
「久蔵さ、これはおらたちが良く働くで、神さまがほうびにくれたじゃねえかい」。「ほうびって、どういうこんだい」。すると和助は「おら、酒ととっかえてくれるとこ、知っているだいね」といいます。二人の話は、まとまりました。
何日か過ぎて、和助と久蔵は金の仏さまを包んだ風呂敷包みを大事そうに抱いて、熊倉街道を歩いていました。「和助さ、えらく遠くまで行くだね」。「そうせ。熊倉まで行きゃ、誰にも分からねえずら」と、和助は得意げに言います。
そして「仏さま、悪く思わんでくだせえよ。うんまい酒で供養しますでね」と、少しやましい心を「供養する」などといいかえました。
熊倉の店で首尾よく酒に取り換えてもらい、家に帰りついた時は、もうすっかり暗くなっていました。「うまくいったいね。さあ、飲むか」。二人は飲んでいるうちに、だんだん酔いが回ってきました。
「あんねに立派な仏さまと、こんだけばかの酒じゃ、割りが合わねえ。あの店は、けちだいね」「そうだ、そうだ」と、店の悪口をいいながら、すっかり飲んでしまいました。
(和助と久蔵が値切られて交換した酒の量は、こんな貧乏徳利に入る程度の量だったのでしょうか?=明科歴史民俗資料館蔵)
その後も二人は、開墾の作業にでていましたが、和助と久蔵は相次いで、手を傷めたり足を怪我したりして、ずうっと災難つづきでした。二人は顔を合わせては、「仏さまのばちが当たったかいね」などと、こっそり話しあっていたということです。
そんなことがあってからも、村人総出の開墾作業は進み、九月の八坂神社の秋祭りの前に無事に作業を終えたといいます。開拓した長者ケ池はいま、見渡す限りの広い水田地帯になっています。
* 『 あづみ野 豊科の民話 』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。