15、16の両日、ハーブスクエアのある穂高有明の豊里地区の秋祭りでした。
秋の実りをもたらした大地と農の神に感謝の気持ちを込める祭礼ですが、日照りは続いたものの大きな天変地異もなく、安曇野は五穀豊穣の秋を迎えました。
安曇野・穂高の中でも豊里区は、戦後になって開拓されたところですので地域の伝統行事といったものが、これまでありませんでした。
こうしたことから豊里にも子どもたちの思い出に残るお祭りにしようと「豊里御船保存会」ができました。御船は、安曇野の地がその昔、北九州一帯の海洋に勢力をもっていた安曇族が移り住んだという故事に因んで祖先を偲ぶため造られる山車です。
船は、昨年できあがりましたが、ことしは地区の人たちの寄付で船の舞台を飾る人形が飾り付けられました。15、16日はそのお披露目に地区内を練り歩きました。
笛、太鼓の祭りばやしを響かせながら、ハーブスクエアの前にもお船が来ました。船は高さ4㍍、長さ5㍍、重さは2㌧もあるそうです。
船を曳航する手綱は子どもたちが引き、船の本体部の横木を大人たちが押します。長い登り道なので、引き手、押し手にも力が入ります。
いよいよ、人形の舞台が通ります。
江戸時代、松本城の過酷な年貢の取り立てに困窮していた安曇野の農民たちが、その軽減を求めて起ちあがりました。
その中心になったのが庄屋の多田加助で、死をも覚悟して城に直訴に及びます。川を渡って直訴に出かける加助が、対岸で見送る妻子と別れを惜しむ「熊倉の渡し」の場面を描いています。
伝統的な穂高人形は、胴体部を藁で作り上げますが、この人形は新聞紙を使って作り、人形の衣装は住民から提供を受けたものを使用、材料も資金も乏しい中、地区の住民が力と知恵を出し合い手作りしたものだということです。
沿道では、住民に混じって観光客もカメラに収めていました。引き手やお囃子を受け持った子どもたちにも楽しい一日となったことでしょう。
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* 先日、「迷い込んだ二匹の子猿」をアップしましたが、「その後、あの子ザルちゃんはどうしたの」という問い合わせがありましたので、後日談を載せます。
閉店の時間になっても、少し横に移動はするものの山へ帰るような素振りは見せません。
そんなに怯えているようにも見えません。
1時間しても、2時間たってもそのままで、人気がなくなっても降りて来ようとしません。
仕方なく、登った柱の近くにキュウリとブドウの実を置いて帰宅しました。もし翌日もそのままの状態なら保護しなければと思いながら…。
それで翌日(19日)、出勤してみると、くだんの子猿さんはいませんでした。キュウリにもブドウにも手をつけず。
無事に山に戻ったのでしょうか、親猿と巡り合えたのでしょうか。気になりますが、その後の消息は分かりません。
以上が、陳客の顛末です。